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all we have we lose|持てるものは、すべて失う

Summary:

Liseさんの2016年の作品 ”all we have we lose ” の日本語訳です。

バッキーには2つのオプションがある。誰かが彼の脳からヒドラのフックを外せるようになるまで無期限に再凍結されるか。あるいは、宇宙へ行って、そこの奴らにできることがあるかどうか試してみるかだ。

彼は宇宙へ行く。で、どうなったかというと、そこには人のアタマにちょっかいをかけることに関して多少は知っているヤツがいたのだ。

Notes:

ほんのりバッキー×ロキ。バッキーとスティーブがCA:CWの終盤、ワカンダにいる時点から話が展開します。アスガルド側は映画設定とは少し違い、DW後、オーディンがアスガルドで長々とオーディンスリープについているらしく、ロキは一時オーディンを装ってアスガルドを治めていたが結局は再収監され、現在はソーが執政として真面目にアスガルドを治めています。(※このficはラグナロク公開前に書かれた作品です。)

【注意事項】 マインド・コントロールや自殺あるいは希死念慮について触れています。またマインド・コントロールされたキャラクターが出てきます。若干の暴力及び流血表現があります。

(See the end of the work for more notes.)

Work Text:

 

「バッキー」とスティーブは、ほとんど懇願するように言った。「こっちの方がいい選択なんだ」

「宇宙のエイリアン、」と、バッキーはそっけなく言った。「そっちのほうが“いい選択”か?」

「無期限に凍結されるよりもいいだろうか? ああそうだ」スティーブがまるで今から殴り合いでも始めるというふうに彼に向き合っていて、それはバッキーをムズムズさせた。あるいは、その理由は、少し離れた場所で腕を組み、感情の読み取れない表情のまま二人を見守っているワカンダの王にあるのかもしれない。あるいは、礼儀正しく距離を取って背を向けて立っている宇宙人のせいかもしれないが、バッキーは彼が会話のすべてを聞いているとほぼ確信していた。「アスガルドのテクノロジーは地球上の何よりも進んでいる――失礼ながら、陛下」と、スティーブが付け加えた。ティチャラの眉がほんの毛筋ほど吊り上がった。

「気にしてない」

「アスガルドの治療者たちなら助けられるかもしれない。あるいは、例の言葉がきみに効かないような方法を考え付くかもしれない。もっとほかの、これじゃない……」スティーブは言葉を途切れさせ、それから深く息を吸った。「もちろん、きみの選択だ。ぼくはただ、きみがすべての選択肢をちゃんと知ってるかどうかはっきりさせておきたかったんだ」

 バッキーはスティーブを見つめ、不意にどっと疲れを感じた。できないと分かっていたからだ。もう一度、あの状態に戻ることはできない。ほかに選択肢があるのなら、なおさら。スティーブには山ほどの恩義があるし、それに自分の中の利己的な部分はホッとしているのも確かだ。凍結されると思うと、いまでも耐えがたいほどの嫌悪感を感じるからだ。

 だが何よりも大きかったのは、スティーブへの恩だった。

「分かった」と彼は言い、皆から視線を外す。「分かった、やるよ」

 スティーブの体から力が抜け、バッキーは若干の安堵を感じた。「アスガルドならきみを助けられるさ」と、スティーブが言った。「バック……やってみようっていう気になってくれてありがとう。それからきみが戻ってきた時は……」ティチャラの方をちらりとみながら、言葉がしりすぼみになる。

「ここにお迎えしよう」と、相変わらずほぼ無表情で、ティチャラが言った。

 それで、もし向こうでもどうにもできなかったら、と、バッキーは問いたかった。そのときはどうするんだ? だが彼は尋ねなかった。スティーブがこれを必要としているのはあまりにも明らかだし、バッキーは……なぜ自分たちがワカンダに身を隠しているのかを知っていた。それはソコヴィア協定だけが理由ではなかった。

 というわけで、それが今、クラクラする頭で宇宙にある虹の上に立ち、あまり口をぽかんと開けないよう努めている理由なのだった。「アスガルドへようこそ、ジェームズ・バーンズ」と、ソーが重々しく言い、そしてバッキーはまじまじと目を見張るのに忙しすぎて答えられなかった。


 バッキーはソーのあとについていきながら、内心のおったまげを顔に出さないように努めつつ、相手の話に意識を向けた。「残念ながら、望むほど行き届いたもてなしはできそうにない」とソーは言った。「……父は現在〈オーディンスリープ〉に入り、力の回復中だ。そのため、俺が代理として王の務めを果たさねばならず、多くの時間をそれに割かれるだろう。だが、すべてではないはずだ」と彼はすぐに付け加えた。「何か必要なものがあれば、遠慮なく言ってほしい。部屋は用意してあるが、行きたいところへは自由に行って構わない」

「誰かに……」バッキーは、自分の新しいワカンダ製の腕に視線を落とした。「怪しまれたりしないか?」

「……モータルがここにいることに、興味を示す者はいるかもしれん」とソーは少し間を置き、言葉を選ぶように答えた。「だが、それ以上のことはないだろう」

 “興味”という言葉の響きに、バッキーはわずかな違和感を覚えた。まるで見世物のように扱われる気がしたのだ。それでも彼はうなずいた。「自分の身は守れる。できれば、長引かないといいがな」

「そうだな」とソーも同意する。「休むか? それとも、このまま治療者のもとへ案内しようか」

「このまま」バッキーは言った。無礼に聞こえていないといいがと思いながら。ソーのことはよく知らないが、スティーブが信頼しているし、何より王なのだ。「悪い、ただ……俺はこいつをさっさと終わらせたいんだ」

 ――医者にはろくな思い出がない、とは口にしなかった。ここへきて、実際に宇宙人の医者につつきまわされるという事態に直面し、その見通しに彼は落ち着かず、神経がささくれ立つのを感じていた。

 それでも、そのナーバスささえ、宮殿と思しきものを目にして息を呑むのを防ぐ役には立たなかった。ゴージャスで、広大で、黄金に輝き、周辺の街の上にそびえ立っている。ほとんど現実のものとは思えないぐらいだ。「すげえ」と、彼は呟いた。彼と一緒になって眺めながら、ソーがほほ笑んだ。

「美しいだろう」とソーが同意したが、その声の中にどこかもの思わしげなものを聞き取ったとバッキーは思った。もっとも彼は尋ねはせず、ただソーのあとについて門をくぐり、宮殿の敷地内へと入っていった。

 数人の衛兵がソーに礼を取り――ソーが呼ぶところのエインヘリャル――そしてソーが隊長と呼ぶ一人に「ミッドガルドのジェームズ・バーンズで、俺の客だ」とバッキーのことを紹介した。バッキーは返礼として軽くうなずいたが、その直後、自分が無意識に武装や防備を見極めていたことに気づいた。まるでこのビョルン隊長が脅威か、あるいはターゲットであるかのように。

 彼はその思いを押しやり、再びソーが言っていることに集中した。「親しい友人たちは今は不在だが、ほどなく戻るだろう――彼らが戻った際、もし何か必要で俺が対応できないときは、彼らを頼ってほしい。それまでは――世話役を一人つけよう、そうすれば――」

「いい」と、バッキーはさえぎった。「世話役は必要ない」その発想自体に、思わず身をすくめたくなる。ソーが彼に妙な眼差しを投げたが、それから肩を少しすくめた。ミッドガルド人の奇妙さなのだろうとでも受け取ったようだった。

「好きにするといい」

 それから少し先へ進んだところで、目的地と思しき場所にたどり着いた。ただし、消毒薬や病気の匂いはまったくしない。ソーが近付くと、静かに話し合っていた二人の女性が顔を上げたが、バッキーの方はほんのチラリと見ただけだった。

「殿下」片方の女性が、お辞儀をしながら言った。「どのような御用でございましょう?」

「助力を必要としているミッドガルドからの客人を連れてきた」と、ソーが言った。その声色が微かに変わり、バッキーは彼自身がそれに気づいているんだろうかと思った。「こちらはジェームズ・バーンズ、個人的な友人だ」その寛大な表現に眉を動かすのをこらえながら、バッキーはソーをちらりと見た。とはいえ、ソーはどこへ行ってもすぐに友達を作るタイプの人物なんだろうという印象を持った。

「どのような症状でございますか?」と、治療師の一人が尋ねた。バッキーはわずかに身じろぎした。

「自分のことは自分で話せる」と、少し口調がきつくなりすぎたかもしれないが、これまで経験したどの医療施設とも全く異なる状況とはいえ、やはり総毛だつような不快感を覚えていた。「アタマの――ある奴らが俺のアタマを弄り回したんだ。連中にされたことを、全部消してほしい」

 責任者とおぼしき方の治療師が彼に向かって眉をひそめ、それからソーの方へ視線を戻した。「それは極めて異例な――」

「わかっている」と、ソーが言った。「だが彼の治療はミッドガルドの及ばぬところなのだ。もしアスガルドにできることがあるなら、やってもらいたい」

「分かりました」しばらくしてからそう言い、バッキーの方へ向き直った。「こちらへ」

 バッキーはソーにちらりと視線を送り、彼が同意を示すのを確認してから、その治療師の後について別の開けた部屋へと入った。そこには、平らな台のようなものと、その上部に設置された装置があった。彼はたじろいで思わず足を止めた。口の中に金属のような味が広がる。

「こいつはなんだ」警戒心がはっきりと声に出ているのはわかっていたが、抑えられる気がしなかった。

「ソウル・フォージです」と治療師が、まるで彼の理解が遅いかのような口調で答えた。バッキーが彼女を見つめると、彼女は続ける。「あくまで診断装置にすぎません。あなたの症状を特定するためのものです」

「その通りだ」肩に手が置かれた瞬間、バッキーはわずかに身を強張らせたが、振り払うことはしなかった。心のどこかでそうしたいと思ってはいてもだ。「何の害も及ぼさない」

「あんたにとってはな」と、バッキーは言った。「そもそも人間に使えるとどうしてわかるんだ?」

 ソーの顔に一瞬、もの寂しい表情がよぎった。「俺の……かつてジェーン・フォスターがここへ来た時にも使われ、何の悪影響もなかった。おまえも大丈夫だ」彼の笑みは小さなものだったが、それでも安心感を与えてくれるものだった。「案ずるな、ジェームズ・バーンズ。おまえに危害が及ぶようなことはさせない」

 バッキーは身じろぎし、それからやっとソーの傍を離れてつかつかと前に進んだ。「それで、俺はただ……この上に横たわるのか」と、彼は言った。治療師はわずかに顎を引いてうなずき、どこか苛立った様子を見せた。バッキーは鼻から深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。

 なんでもないさ、と、彼は自分ににべもなく言い聞かせ、台に上がって横になり、手のひらをピッタリと台に押し付け、歯を食いしばらないように努めた。治療師が何かの仕草をすると、光がさあっと広がり、しばらくしてからその光が……人の形をぼんやりと模した像へとまとまった。ただし左腕は見えない。俺の体か、と、バッキーは思い、それから目を逸らした。

「力を抜いて」と、治療師が言ったが、依然苛立ったような調子だった。もち、簡単なことじゃねえか、と、バッキーは苛立ちながら思い、だがベストを尽くした。「これから助手を呼びます。じっとしていなさい」

 バッキーは目を閉じて呼吸に集中した。「大丈夫か?」と、ソーが尋ねた。

「平気だ」と、バッキーは硬い声で言った。少なくともそのつもりだった。無防備に仰向けになっていることから、これから見知らぬ他人がアタマの中をつつき回そうとしていることまで――アタマの中を覗きこまれるだけでもうんざりだ――何もかも気に入らないにしてもだ。これまでにもう散々やられたじゃないか。

 治療師がもう一人の女性と連れ立って戻ってくるまでほんの数秒しかかからず、二人は静かに話し合っていた。責任者の方が制御装置らしきもののところへ戻り、連れは彼女の横に立っている。

 バッキーはこぶしを握り締め、身動きしないよう懸命に努めた。痛みはなかったが、これから痛くなるだろうとばかりに身構えるのを止められなかった。頭蓋の内側を何かがちくちくと這い回るような感覚があり、まるで忌々しい蜘蛛のようで、いっそ気絶させてくれないものかと思った。このままだと、自分の方が先に誰かの顎を殴りつけてしまいそうな気さえしていた。

 そのとき、治療師が「ああ、なるほど」と言った。バッキーはビクッとした。

「何だ」と彼は言い、起き上がろうとした。だが助手が片手で彼を押し戻し、その瞬間バッキーのアドレナリンが跳ね上がる。それでも二人は彼を無視し、ソーの方へ向き直った。

「何なのだ?」と、眉を寄せながら、ソーが繰り返した。

「わたくしたちは特定しました……異常を」治療師は、相変わらずバッキーを無視したまま答えた。「しかし、本来あるべきものと、そうでないものとを切り分けるのが困難です」

「ヘイ、」と、バッキーは荒っぽく言った。「頭越しに話すんじゃなくて、俺に話してみたらどうだよ」

 治療師が彼にくれた視線は、犬が彼女に向かって喋り出したときに寄越すような類のものだった。それはバッキーに、ヒドラの科学者たちが彼を見る目を少し思い出させた。まるで標本のように。彼はこぶしを握って目を閉じ、吸っては吐く息を数えた。

「何を言わんとしているのだ」と、ソーが訊いた。治療師が助手の方に目をやり、それからソーの方を、そしてバッキーに目をやった。「明確にせよ、レディ・ニッサ」と、気に入らないという調子で、ソーが言った。

「これはわたくしたちに馴染みのある類の魔術ではありません」と、ニッサと呼ばれた治療師が、しばらく間をおいてから言った。「しかも、非常に巧妙に編み込まれており……下手に手を加えるのは危険です。精神の他の部分に重大な損傷を与える恐れがありますし、すでに生じている損傷を修復できる保証もありません」少なくとも、その言葉は一応バッキーに向けられていた。彼の胃が重く沈む。

「つまり、何もできないってことか」バッキーは平坦な声で言った。期待すべきではなかったと分かってはいたが、それでもどこかで落胆している自分がいた。ここまで来たのに――こんな、くそったれな異星まで来たのに――地球と同じように、何もできないと言われるだけだとは。そして、その失望によって初めて、自分がただスティーブの顔を立てるためだけにここへ来たわけではなかったのだと気づく。

 彼は、もう凍結状態に戻りたくはなかった。よくて役立たず、悪ければ危険要因。重荷でしかない存在には。

 クリーンになりたかった。

 治療師たちは再び視線を交わした。「ええ」とニッサは言い、ほとんど優しげに聞こえる声音を作ったが、それはどこか、怯えた動物に向けるような種類の優しさだった。「申し訳ありません。我々の治療技術は進んでいますが、これは専門とする者がほとんどいない分野なのです。ヴァニールの中には、あるいは……」

「いいえ」ともう一人の治療師が静かに言った。「その分野を扱っていた最後の者は、ここ一、二年のうちに亡くなりました」

 バッキーはがくりと肩を落とした。小さく音を立てて頭を後ろに預ける。「上出来だな」と彼はぼそりとつぶやく。「最高かよ」ソーの方は見なかった。彼の顔に浮かぶであろう哀れみを見たくなかった。

「尽力に感謝する」と長い沈黙のあとでソーはぶっきらぼうに言った。「ジェームズ・バーンズと少しだけ二人きりにしてくれぬか?」控えめな同意の声が返り、バッキーは目を閉じ、彼らが静かに退出していく気配に耳を澄ませた。本当は自分も礼を言うべきだと分かっていたが、どうしてもその気にはなれなかった。

「すまない」とソーは静かに言った。その声には誠意がこもっていた。バッキーはただ肩をすくめた。

「結局プランAに戻るだけさ。最初からそうするつもりだったし……それに、まあ、よその星に行ったって自慢はできるしな」声に本当の興奮を込めることができなかったが、そもそもあまり努力もしなかった。

 ソーは息を吐いた。「そこまで絶望的であるはずがない」と苛立ちをにじませて言った。「何か方法があるはずだ……」言葉を途中で切り、黙り込む。バッキーは目を開けて彼を見た。ソーは眉をひそめ、遠くを見つめていた。

「なんだ」とバッキーが鋭く言った。ソーはさらに眉を寄せたが、すぐに我に返ったように見えた。

「……別の手段があるかもしれん」と、彼はゆっくりと言った。

「別の手段?」とバッキーは繰り返した。「つまり、俺のための、か。まだ何かできることがあるってことか」警戒心に、肌がひりつく。「どんな手段だ?」

「……ある人物がいる。治療師たちよりも、精神の魔術についてより深く――知っている者がな」バッキーが眉を上げると、ソーは横目で彼を見た。「もし話してみたいのなら、呼び出すことはできる」

 ソーがぼかした言い方をしているのには理由があるに違いないと、バッキーは直感していた。それでも、どこか愚かしい自分の一部がその新たな逃げ道にしがみつき、手放すことができなかった。「わかった」と彼はゆっくり言った。「でも、最初からそいつを試そうとは思わなかったのか?」

 ソーはしばらくの沈黙の後に、「彼のもとへ連れて行けば、理由が分かる」と答えた。彼は衛兵の一人を呼び、指示を伝える。そのあいだにバッキーは装置を降りて立ち上がった。アスガルドの機器から解放されたものの、これが良い話なのかどうかは判断がつかなかった。ただし、まだ何も「同意」はしていない。ただ選択肢を探っているだけだ。

 うまくいかなければ、凍結状態に戻ればいいだけだ。


 バッキーはソーの後について、いくつもの廊下を進み、やがて宮殿の中心部からはかなり離れていると思われる一角の突き当たりにたどり着いた。「その別の手段って何だ?」と彼は尋ねた。ソーは答える前に、しばし足を止めた。

「俺の弟だ」その言葉に、バッキーはその場で立ち止まった。

「……あの“悪いほう”のヤツ?」バッキーが言うと、ソーは顔をしかめそうになった。

「状況は……彼は変わった。今は囚人でもある。もちろん……最善の選択だとは言わない。むしろほど遠い。だが、治療師たちに何もできないのであれば……」ソーは言葉を濁した。バッキーは何も言わず、再び歩き出す。やがてソーは一つの扉の前で立ち止まった。「ここだ。もし望まないのなら……無論、おまえの意思を尊重する」

 俺の意志か、とバッキーは思った。そんなもん、自分でも分からない。首を鳴らし、フーッと鼻から息を吐き出す。「せっかくだ。ここまで来たしな」ソーは彼をまっすぐに見つめてからうなずき、扉を開け、自ら中へと入っていった。

「弟よ」と彼は言った。「なぜ呼び出されたか――」

「なぜこんなに唐突に呼びつけられたのか、だろう?  ああ。どうやら客人がいるらしいな?」

 バッキーは深く息を吸い、ソーの後に続いて部屋に入った。敷居を一歩越えたところで足を止める。首筋の毛が逆立つような感覚。テーブルについている男は立ち上がろうともしない。バッキーは彼の顔を見たことがあった──ニューヨークの一件の後に出回った、ぼやけた写真や報告書の中でだ。だが実物は……違っていた。髪はもっと長く、ゆるく波打っており、体つきも細く見えるが、服装のせいかもしれない。それでも、その姿勢はまるで玉座にでも腰かけているかのようで、表情には計算された退屈さが漂っていた。とても囚人には見えない。

「これはこれは」と彼は言った。「ジェームズ・ブキャナン・バーンズではないか」

「俺のことを知ってるのか?」とバッキーは動かずに言った。面識はないが、ロキの名は当然耳にしている。しかも、十分すぎるほどに。

「“知っている”というよりは、“聞き及んでいる”と言うべきかな」とロキは、興味を装った穏やかな表情を浮かべて言った。「何しろわたしは、自分の敵については把握しておくのが好みでね。おまえはキャプテン・ロジャースにとって、実に大きな存在のようだ。いや、だった、と言うべきか?  見るところ、今は一人で来ているようだが」

「ひとりじゃない」とソーが低く言った。それは唸り声に近く、バッキーはロキの身体がわずかに強張るのを見た。

「なるほど、もちろんだな」とロキが呟いた。だがその声には、先ほどとは別種の毒がにじんでいる。「金髪の救い主が、もう一人いたか」

 バッキーは無表情を保った。そうすることには慣れている。それがロキの癇に障っているようだったのは、思わぬおまけだった。

「言葉を慎め」ソーが言うと、ロキの肩が一層こわばるのが見えた。二人を同じ部屋に置いておくのは逆効果にしかならない、とバッキーは悟る。かといってロキとふたりきりになるのも気が進まない。「バッキーは我々の客人だ。敬意をもって接しろ」

「ほう、そうしろと?」ロキは彼を射抜くように見つめ、バッキーは思わず目をそらしたくなる衝動を抑えて見返した。「脅して従わせようというのか?」

「こいつが治療について何を知ってるっていうんだ?」バッキーは、ロキが答える前にソーに向かって言った。ソーはロキを厳しく一瞥し、それからわざと視線を外した。

「ロキは……精神の操作や支配について、ある程度の“心得”があるのだ」とソーは言った。

「ソーが、あえて婉曲に表現しようとしているのは、」とロキが、これ以上ない素っ気ない声で言った。「わたしがかつて、魔術を使って白羽の矢を立てた数名のミッドガルド人の精神を自分の意のままに屈服させたということだ」バッキーは思わず身を引きそうになるのをこらえた。ロキはにこやかに微笑んだ。

「ロキ」とソーが唸るように言い、それからバッキーに向き直る。「彼が使っていた武器は、もう存在しない」と彼は急いで付け加えた。「万が一にもおまえに危害を加える可能性があると思ったなら、決してここへ連れて来たりはしない。だが、治療師たちは手詰まりで、もしかしたら……彼がおまえに魔法を使うことはないだろうと思ったのだ」

 バッキーはロキの様子を半ば注意深く見張っていた。ロキは顎を手に乗せ、いかにも礼儀正しい興味といった風情でこちらを観察している。その視線に、首筋がむずがゆくなるような感覚を覚えた。「じゃあ、こいつは何をするつもりなんだ?」

「ただ話すだけさ」とロキは言った。「質問をして、おまえの……その特異な状態について、わたしに分かることがあるかどうかを見極める。わたしは会話の名手だと評判でね」

「だろうな」バッキーはソーから目を逸らさずに、語尾をぶっきらぼうに切り捨てるように言った。当のソーは居心地悪そうにしている。「これって、最初から計画に入ってたのか? それともその場の思いつきか?」

「この件を聞いたのは、せいぜい三十分ほど前だ」とロキは答えた。バッキーは「黙れ」と言いそうになるのを必死に抑えた。そんなことを言えば、かえって相手を喜ばせるだけだと分かっていたからだ。ソーがほんの一瞬だけ弟の方に視線を向ける。

「可能性の一つとしては考えていた」と彼は言った。明らかに言葉を濁している。「理想的ではないにしても。だが、他はともかく……ロキは頭が切れる」

「で、その“他はともかく”とは何だ、ソー王子?」ロキの声には鋭利な刃のような響きがあった。バッキーはさすがにうんざりした。ソーの方へ完全に向き直り、できる限りロキに背を向ける。

「少し、やつと二人で話してもいいか?」とバッキーは尋ねた。「俺ひとりで」

「勇敢なことだ」とロキが言う。バッキーはそれを無視したが、ソーはロキの方に向かって眉を寄せる。

「いいだろう」とソーは言ったが、不本意さを隠しきれていなかった。「ロキ……」警告の言葉こそ口にしなかったが、その声音にははっきりとした含みがあった。ロキは明らかに作り物めいた笑みを浮かべた。その笑顔にバッキーはひどく不快な感覚を覚えた──うっすらと粘着質の膜で体を覆われたような気味悪さだった。それでも、諦めたり引き下がったりする選択肢のほうが気が進まなかった。「すぐ外にいる」とソーは言い、部屋を出て静かに扉を閉めた。

「さて、これで二人きりだな」ロキは滑らかな声で言い、顎から手を離し、背筋を伸ばした。「それで、あのマイティソーの繊細な耳から遠ざけて話したいという“衝撃的な”内容とは?」

 部屋にはもう一脚椅子があった。バッキーはそこへ歩み寄り、どさりと腰を下ろす。「そんな大した話じゃない」とぶっきらぼうに言った。「ただ、あんたがこれで何を得るつもりなのか知りたいだけだ。ソーがいない方が、くだらない茶番も減るかと思ってな」

 ロキはまばたきをし、一瞬だけ意外そうな表情を見せたが、すぐにそれを隠した。「ほう、そうかね」

「あんたらのくだらない駆け引きに付き合う気はない」とバッキーは言った。ロキは彼をじっと観察し、作り物の笑みを消して目を細める。バッキーも視線を逸らさなかった。「で。あんたの見返りは何だ?」

 しばらくの沈黙のあと、ロキは肩をすくめた。「主には退屈しのぎだ。利他的な動機でも期待していたのか?」

「いや」バッキーは率直に言った。「減刑とか、そういうのじゃないのか?」

 ロキは先ほどまでの滑らかな声とは比べ物にならないほど荒々しい笑い声を上げた。「まさか。オールファーザーには再びわたしを野放しにする気など毛頭ない」バッキーは微動だにせず、ただ待った。ロキは沈黙を埋めたがるタイプに見えたが、意外にも何も言わず、わずかに首を傾げてこちらを見ているだけだった。

「ずいぶん薄い理由みたいだが」と、ようやくバッキーは言った。

 ロキは眉を上げた。「では、どんな邪悪な動機をわたしに見出すつもりだ、バーンズ軍曹?」もはや自分のものではないその肩書きにも、バッキーは顔色一つ変えなかった。ロキに付け入る隙を与える気はない。

 バッキーは肩をすくめた。「さあな。見当もつかん」

「もしかしたら、わたしがおまえの精神に目をつけているとか、あるいはおまえを操って自らの解放を取り付けようとしているとでも思っているのかもしれん。それとも、おまえの同胞たちがおまえに施した何かから、新しい手口を学ぼうとしているとでも? あるいは、悔い改めた善良な存在であると示して、将来的な寛大な扱い――解放とまではいかなくとも、多少の特権でも――を得ようとしていると、そう思っているのか」バッキーは何も言わなかった。ロキはゆっくりと瞬きをし、それから鼻で笑って椅子を引いた。「好きに思えばいい。おまえが拒もうが、わたしに損はない」

 バッキーは唇を引き結んだ。場の空気がまた変わった気がしたが、それがどう変わったのか明確にはつかめなかった。ただ、あまりいい空気ではなかった。「それで、俺がもし受けたら?」

「ならば、おまえを助けられるかもしれない」ロキは両手を広げた。「選ぶのはおまえだ」

 バッキーは指で太ももを軽く叩きながら、考えた。最悪のアイデアだ。だが、他に手があるわけでもない。スティーブのもとへ戻り、「だめだった」と告げる。そして、いつ終わるとも知れない冷凍睡眠に戻される。そのときのスティーブの顔が目に浮かぶ。あらゆるものを犠牲にして自分を生かしてくれたのに……。

 一方で、目の前にいるこのクソ野郎。

「分かった」とバッキーは言った。「条件がある。俺を軍曹と呼ばないこと。スティーブのことを口にしないこと。それから、ソーとの問題を持ち込まないことだ」

 ロキは目を細めた。「最後の条件は難しいな。彼が常におまえの肩越しに監視しているような状態ではな」

 バッキーは肩をすくめる。「なら、そうはさせない」

「けだものと同じ部屋に二人きりになることを恐れないのか?」とロキは言った。バッキーは机や脚を指で叩くのをこらえ、腕を下ろしてロキと目を合わせた。

「あんたの言い草だ」と彼は低く言った。「それに、ああ、怖くはないね」わずかに身を乗り出す。「あんたの牙は抜かれている。どういう手段かは知らないが、危害を加えられないようにされてるんだ。従わなければ振り下ろされる、そういう剣が頭上にぶら下がっているんだろ」

 ロキの体が強張り、浮かべていた嘲るような笑みの痕跡が完全に消えた。「おまえの頭上には何もないとでも?」

 バッキーの脳裏に一瞬、口を開けて彼を丸呑みにしようとする冷凍装置が浮かんだ。彼は立ち上がった。「つまり俺の言ってることは正しいってことだ」と言った。「それに、俺は心配していない。ただし、もし俺をからかっているなら――」

「殺すつもりか?」ロキは気だるげに言い、再び退屈そうな表情を浮かべた。

 何かしら脅しの言葉を口にしようかとも考えていたが、バッキーは途中で考えを変えた。「いや」と彼は言った。「俺はただ出ていくだけだ。そうすればあんたはまた退屈で役立たずのまま過ごすことになる。聞くところによると、ずいぶん長い人生らしいしな」彼は扉をノックした。「十年と持たずに、窓から飛び降りるんじゃないかって気がするよ」

 ロキが何か言いかけたように思えたが、それよりも先にソーが入ってきて、二人を見比べた。「やる」とバッキーは言った。「こいつと会う。付き添いはいらない。自分のことは自分でどうにかできる」

 最初は満足げだったソーの表情が、すぐに疑念に変わった。何を考えているかがあまりに明瞭で、むしろ清々しいほどだった。「それが賢明だと、本当に思うのか?」と彼は尋ねた。バッキーはロキの反応を見たくなったが、視線は向けなかった。

「自分のことは自分で何とかする」と彼は言う。「それに、あんたがいるとこいつは余計に刺々しくなる」

「それが問題かね、愛しのソー?」とロキが言った。バッキーは肩越しにちらりと視線を向け、視界の端で何かが動くのを捉えた。そのとき初めて、ロキの手首には、華奢な金属製の腕輪がはめられており、そこに細い金色の鎖がつながれていて、しかもそれは比較的短い長さでテーブルに固定されているのに気付いた。一見すれば軽く引けば壊れそうだったが、おそらく何らかの魔法が施されているのだろう。ロキがそれを隠し通していたことに、少し感心した。

 イメージ、とバッキーは思った。それがロキの執着。覚えておくべきことだ。

「これはバッキーの決断だ」とソーは硬い口調で言ったが、納得している様子ではなかった。「来い」彼はバッキーに向かって言う。「この件は夕食の席で改めて話そう。後で護衛を迎えにやる」

「お招きにあずかれないのか、愛しの兄上? なんとも薄情なことだな」ソーがやや強く扉を閉める直前、ロキの声が響いた。バッキーはソーの表情が悲しみ、苛立ち、怒り、そして喪失感の間で揺れ動き、やがて気を取り直すのを見ていた。

 あんたを見てると兄弟がいなくてよかったと思うよと、バッキーは言いかけたが、ソーには通じないだろうと感じ、やめた。

 そこには一体どんな過去があるのか――そう考えた。ロキに聞いてみるのも手かもしれない。「二つの真実と一つの嘘」のゲームでもして。

「おまえの決断に異を唱えるつもりはない」とソーはやがて言った。でもどうせ言うんだろ、とバッキーは内心で思いながら、黙って続きを待つ。「だが、本当に賢明なのか……ロキは魔法を使わずとも、人を操る術に長けている」

 バッキーはまた無意識に腿を叩きかけていることに気づき、意識して止めた。「もしアスガルドを攻撃しろなんて言い出したら、そのときは知らせるさ」と皮肉っぽく言った。ソーが鋭い視線を向けてきたのを感じ、バッキーはやや真剣な口調に戻した。「自分の身は守れる。あんたが一緒じゃ、あいつから何も引き出せないんだ」

 言った瞬間に、それがソーを傷つけたことは分かった。それでも、ソーはそれ以上何も言わなかった。バッキーはそれで十分だと自分に言い聞かせた。


「その洒落たアクセサリー」とバッキー・バーンズは尋ねた。「そのブレスレットだ。何のためのものなんだ?」

 ロキとのセッション初日。バッキーはわざと半袖を着て、新品の金属製の腕が見えるようにしていた。誰かを威圧できるとは思っていなかったが、自分の気持ちが少し楽になるのだ。

 ロキは自分が何について聞かれているのか思い出す必要があるかのように、片腕を持ち上げた。「飾りだ」と彼は言い、心にもない笑みを浮かべた。「わたしの話をしに来たわけではないのだろう?」

「まるでセラピーか何かみたいな言い方だな」とバッキーは言った。ロキは無表情で彼を見つめ、バッキーは肩を軽くすくめた。「基本的な質問くらいしてもいいだろ?」

「もう知っているはずだ」とロキはしばらくしてから言い、親指で金の輪をなぞった。自分でそうしていることに気づいていないようだった。「少なくとも察しはついているだろう。では、それを聞くのはわたしを挑発するためか、それともわたしの調子を狂わせるためか?」

「単に興味があるだけだ」とバッキーはぶっきらぼうに言った。「正直、あんたのことなんてそこまで気にしてない」

「それは疑っていない」とロキは、まるで動じる様子もなく言った。「とはいえ、非常に無礼ではあるな」バッキーは何も答えず、ロキは背もたれにもたれかかった。「これはわたしの“鎖”だ」と彼はようやく、そっけなく言った。「魔力へのアクセスを制限するためのものだ。ほかにもいろいろと、な」

 バッキーはそれをじっと観察しながら、どういう仕組みなのかと考えた。「見たところ、ずいぶん頼りなさそうだな」

「見た目よりはるかに強力だ」とロキは淡々と言った。「それに、細工をしようものなら、わたしの神経系に非常に痛みを伴う過負荷がかかる。仮にそれでも不十分なら、“アスガルドの鉄槌”たるソーが召喚され、脅威を排除する仕組みだ」彼は片肩をすくめた。「つまり、わたしは完全に管理されているというわけだ」

「へえ、そうかい」とバッキー・バーンズは言い、疑いの色を隠そうともしなかった。ロキは眉を上げる。

「何を疑っている? わたしが十分に制御されていないとでも?」

「それもあるけどな」とバッキーは言った。「どうにも、あんたは鎖につながれたまま大人しくしているようなタイプには見えない」

「代償が死ならば、従うさ」とロキはあっさり答えた。「それで、なぜそこまでこれにこだわる? 自分の世界に戻ったときに直面するものが気になるのか?」

 バッキーは顎をかきながら、ただロキを見つめた。しばらくしてから、いらだったように小さく舌打ちをした。

「こっちから情報を引き出そうとするのはやめろ」とバッキーは言った。「ただ、ここがどういう仕組みなのか把握しようとしてるだけだ」

「“この場の”仕組みか、“わたしの”仕組みか」とロキは言った。バッキーは肩をすくめ、ロキはさらに苛立たしげな声を漏らした。「このちょっとした遣り取りは、おまえのためのものだと聞いていたがね」

 バッキーは姿勢を変え、両足を床にしっかりとつけた。「何をしたんだ?」自分の表情が冷静で無感情なものになっているか確認しながら続けた。「操っていた人間たちのことだ。どうやって――そうなった?」

 ロキは片眉を上げた。「技術的な説明を求めているのか? おまえにはその語彙がないだろう」

「じゃあ、俺にもわかる言葉で説明してくれ」とバッキーが言った。ロキは目を細め、半ばまぶたを閉じたまま彼を見つめた。

「いいだろう」とロキは言い、背もたれに身を預けた。その表情は、バッキーと同じく平坦で読み取れない。「わたしは魔法のアーティファクトを使い、他者の精神に接触して、それを自分の意志に合わせて作り変えた。たとえば、忠誠心を改変し、自分の望みが相手の望みにもなるようになどだ。わたしの理解では、人間が似たようなことをする場合、それは……」ロキは手をひらりと振った。「外科手術と切断の違いのようなものだ。例えが許されるならば」と付け加えた。バッキーには、その例えが意図的なもので、彼がひるむかどうかを試すために計算されたものだとほぼ確信できた。しかし彼は動じなかった。

「どうやって解放されたんだ?」と彼は尋ねた。ロキは肩をすくめる。

「頭部への一撃で十分だったと聞いている。ああいう精神的なリンクは、意識を失った状態では維持するのが難しいからな」

 バッキーはまばたきをし、テーブルから身を引いた。「待てよ。つまり、あんた実際にそいつらのアタマの中にいたっていうのか?」皮膚が粟立つような感覚が走る。ロキは眉をわずかに上げ、どこか意外そうな表情を浮かべた。

「当然だろう」と彼は言った。「接触もせずに、どうやって彼らにわたしの意志を理解させるというのだ?」

 バッキーはそれを想像しようとした。ヒドラの誰かが、常に自分の思考に入り込んでいる状態を。頭の中で起きるすべてを知られている状態を。「それは手術なんかじゃない。解剖だ」

「では、おまえのご主人様がしたことは、それよりましだと?」とロキは言った。バッキーは勢いよく立ち上がり、両手をテーブルに叩きつける。

「あいつらは俺のご主人様じゃない」と彼は唸った。ロキの鼻孔がわずかに広がるが、それ以外の表情は再び静まり返っている。

「元のご主人様、というべきか」とロキは言った。

「あんたに何がわかる」とバッキーは言った。こんなことを始めたのは完全に間違いだった。体が細かく震えているのが分かる。

「見えるのだ」とロキはあっさりと言った。「彼らはおまえをねじ曲げ、歪めきれなかった部分は壊した。都合の悪い部分は削ぎ落とし、別の部分は沈めた。それは――ただの損壊だ。紛れもなくな」

 バッキーは吐き気を覚えた。「よく言うよ。人のアタマの中をひっくり返しておいて。テクノロジーじゃなくて魔法を使ったってだけだろ」

「だが、彼らはいまや自由だ」とロキは言った。「そしておまえの頭の中には、いまだに彼らの破片が刺さったままだ。わたしの従者たちは確かに従者だった。だが、あくまで“生きた存在”だった。おまえは――武器だった。分解され、好き勝手に組み直されるためのものだ」

 バッキーの胃がきつく縮み、今すぐロキに吐きかけたい衝動に駆られた。だが代わりに一歩後ずさる。そこで、遅れてあることに気づいた。「“見える”ってどういう意味だ?」自分に何か印のようなものがあるのではないかという考えがよぎる。ヒドラの触手のついた髑髏が焼き付けられているかのような――

「おまえの周囲ではエネルギーが歪んでいる」とロキは言った。「わたしの魔法から見れば、おまえは本来なめらかに流れるはずのものが、ねじれた結び目になっているように見える。歪んでいるんだ」

 歪んでいる。分解され、組み立て直された。バッキーはさらに一歩下がり、危うく椅子につまずきかけた。「これが助けになるとでも思っているのか」と彼は荒い口調で言った。ロキは肩をすくめた。

「おまえが尋ねたのだ」彼の声音にはまったく気遣いがない。動揺もない。バッキーはその髪をつかみ、顔をテーブルに叩きつけてやりたい衝動に駆られた。

「聞かなきゃよかったぜ」と彼は歯ぎしりするように言った。これは間違いだったし、そしてこれ以上、ここにとどまって悪化させるつもりはなかった。

「嘘をついたほうがよかったか?」とロキは尋ねた。バッキーは足早に部屋を出て、ドアを叩きつけるように閉めた。そしてその場に立ち尽くし、ゆっくりと均等に呼吸を整えようとする。こんなのは馬鹿げている。ただこの奇妙なヴァイキングの星を離れて、最初の考えに戻ればいいだけだ。

 だが、それはできなかった。スティーブのこと、そして自分がしてきたこと、捨ててきたすべて。さらに、冷凍前の一瞬の冷たさを思い出すだけで、バッキーの喉は締めつけられ、またガラスの棺の中に自分を押し込むくらいなら、ワカンダの密林に逃げ込んだ方がマシだと感じた。

 選択肢なんて、ほとんど残っていない。ああもう、こんな生き方に、彼は心の底からうんざりしていた。


 バッキーが再びロキのもとを訪れたのは、それから一日半と、非常に長く感じる祝宴を二度こなした後のことだった。

 バッキーはドアの前で足を止め、左右に立つ二人の甲冑姿の衛兵を見やった。「バーンズ卿でしょうか?」そう聞かれて、その呼び方に異を唱えることも一瞬考えたが、どうでもいいと思い直した。

「何か問題でも?」彼は体を強張らせないよう努めながら言った。これまでのところ、奇妙な視線を向けられることはあっても、面倒ごとに巻き込まれたことはなかったが、それがこの先も続くとは限らない。アスガルドの連中の多くは、ちっぽけな人間をあまり高く評価していないようだった。

「皇太子殿下から、あなたが来ると聞いております」とアスガルドの兵士が言った。「我々は新たにロキの警護に就いた者です」

「もし彼が何か厄介を起こしたら、我々は外におりますので」と、もう一人が付け加える。バッキーは再び二人を見比べ、眉をひそめた。

「何か変わったのか?」彼は率直に尋ねた。二人は互いに視線を交わす。

「ここ最近、やや……扱いにくくなっておりまして」と一人が遠回しに言った。「とはいえ、あなたが問題に巻き込まれることはないと思われます」

 安心させるつもりか、とバッキーは内心思ったが、無視するのが一番だろうと判断した。前回の出来事については、あえて触れないつもりだった。彼はノックもせずに扉を開けた。

「また来てわたしに愚痴を言うつもりなら、ソー、聞く気はないぞ」とロキは言いながら振り向き、しかし途中で言葉を切り、わずかに驚いた様子を見せた。バッキーは、その反応に満足したかもしれないが、ロキの目の周りの黒い痣、そして反対側の頬にかけて骨が見えるほど深く切り裂いたと思われる傷跡に気を取られていた。一瞬だけ、ロキの顔を机に叩きつけるという自分の空想を思い出し、もしかして記憶にないまま実際にやってしまったのではないかと考えたが、そんなはずはないとすぐに打ち消した。

「一体何があったんだよ」バッキーは驚きを隠そうとしながら尋ねた。

 ロキは顔をそらし、明らかに虚栄心から傷を隠そうとした。「わたしがここへ呼び出されたのは、おまえのせいか?」その声は張り詰めているように聞こえた。

「たぶんな」とバッキーは悪びれもせず答えた。「この星じゃ、“扱いにくい”ってこういうことを言うのか?」

「アスガルドは星ではなく、界域だ、この無知な生き物め」とロキは言い返した。「新しい見張りが、そうだとでも言っていたのか?」

「いや、何も言ってなかった」

 ロキの口元がわずかに歪み、その動きが傷を引きつらせているはずだったが、彼は顔をしかめることもなく、痛みを見せる様子もなかった。「どうやら、誰かがわたしの顔にかなり強い嫌悪感を抱いたようでね」やがて皮肉をたっぷり含んだ声でそう言った。「そして、わたしが拳による挑発に応じられないと知ると、少々大胆になったようだ」

 バッキーは続きを待ったが、ロキはそれ以上話さなかった。「それで、あんたはどうしたんだ」少し苛立ちながらそう聞いた。ロキは彼を見た。

「何もしていない」と、長い沈黙の後で答えた。バッキーは鼻で笑った。

「はいはい」

 ロキの顎が目に見えて強張った。「わたしに課された拘束の条件では、他者に対する暴力は許されていない」と、さらにしばらく沈黙した後に彼は言った。「だから、そうだ、本当に何もしていない。幸いにも、さほど血の気の多くないエインヘリャルの一人が通りかかってくれたおかげで、舌を切り取られる前に助かったというわけだ」

 ロキの声は冷ややかで、完全に事務的だったが、それが作為的なものかどうか、バッキーには判断がつかなかった。だが彼の注意は、別の点へと向いていった。

「自分の身を守れないのか?」とバッキーは尋ねた。

「そうだ」ロキはしばらくの沈黙の後に答えた。「できない」

「へえ」とバッキーは言い、顔の裂傷に目をやった。「それで、まだ生きてるんだ?」

「今のところはな」とロキは、やはりほとんど感情を込めずに言った。「建前上は違法だからな」

「だろうな」とバッキーは語尾を噛み切るように言った。口の中にかすかな苦味が広がる。「見えないところに痣を作るだけってことだろ」ロキは露骨に驚いた表情を見せ、バッキーは顔を背けて顔をしかめた。「まあいい。帰るよ」

 バッキーが背を向けかけたところで、ロキが言った。「無理に帰ることはない。わたしはここにいるし、わざわざ来たのを無駄にすることもないだろう」

 バッキーは振り返り、ロキを観察したが、その表情をうまく読み取ることができなかった。そもそも、人の表情を読むのは得意な方ではない。「そうか」と彼は中立的に言い、肯定も否定もしなかった。ロキは片肩をすくめた。

「好きにすればいい。気を紛らわせたいのだ。痒くて仕方がない」

「いい趣味だな。俺は気を紛らわせるための存在ってわけか」そう言いながらも、バッキーは立ち去らなかった。ロキはやがて、前回と同じ椅子へとゆっくり歩みよって腰を下ろし、もう一つの椅子を手で示した。バッキーは立ったまま、ロキを見つめ、ロキもまた彼を見返した。「どうしてここにいることになったんだ?」と、やがて沈黙を破ってバッキーが言った。

「わたしが助けるべき相手にしては、おまえはやけにわたしのことを詮索するのだな」とロキは言った。

「俺のアタマのことを話す前に、あんたのことをもっと知っておきたい」とバッキーは言った。「俺は武器として扱われるのと同じくらい、従者になる気もない」

 ロキはわずかに愉快そうな表情を浮かべた。「わたしは言わなかったか――」

「あんたが使った道具はもう手元にないって話だろ。人のアタマを壊す方法なんて、一つじゃないからな」ロキの表情がわずかに奇妙に揺らいだ。

「買いかぶりすぎだ」と彼は低くつぶやいた。バッキーは表情一つ変えなかった。「さて、その質問だが――ここに至った経緯を聞いているのか? 囚人としてここにいる理由か、それとも、もっと存在論的な意味でか?」

 その問いが本気なのか、ただ嫌味を言っているのかバッキーには判断がつかなかったが、前者として受け取って考えた。「最初のやつだ」と答えた。ロキはしばらく考え込んでいて、バッキーは大嘘をつかれるんじゃないかと一瞬疑った。ソーに聞けばよかったかもしれない。今からでも遅くはない。

「どこまで知っている?」とロキはやがて言った。バッキーは肩をすくめた。

「数年前に地球を征服しようとしたってこと以外は、何も」

「ふむ」ロキの目が細くなる。「わたしの半生をすべて語って退屈させるつもりはない。要点だけを言えば、アスガルドにとって利益となるいくつかの行動を取ったことで、以前の刑罰がいくぶん猶予された、ということだ」

 それは曖昧で、ほとんど何も分からない説明だった。「どういう意味だよ」とバッキーは率直に尋ねた。間抜けみたいに聞こえようが気にしなかった。

 ロキは無表情に彼を見た。「詳細はおまえの知るところではない、という意味だ」

「へえ」とバッキーは言った。興味深い、と彼は思った。ロキは人の思考を支配したことについてはあれだけ率直だったくせに、自分の刑を軽くするほどの行いについては歯切れが悪い。もっとも、自分を守ることすらできないというのなら、その減刑も大した取引ではなさそうだった。バッキーは片目でロキを見た。「ソーに聞けば教えてくれそうだけどな」

 ロキの鼻がわずかに膨らんだ。「おそらくな」

「だったらあんたの口から聞いた方がマシだろ」

 ロキの肩がぴくりと動いた。「それがどう関係する?」

「関係あるさ。あんたが話したがらないからな」とバッキーはあっさり言った。「疑り深いって言うなら、そう思えばいい」

 ロキは唇をきゅっと結んだ。しばらくしてから、ほとんど吐き捨てるように言った。「ダークエルフの侵略の際、わたしはソーに協力し、マレキスの追跡を手助けした」バッキーは続きを待ったが、ロキはそれ以上何も言わなかった。バッキーは思わず鼻で笑いそうになった。

「それだけか?」と彼は言った。ロキの表情がわずかに引きつったが、何も言わない。バッキーは首を振った。「そんなに言い渋るほどの話には思えないな」

「おそらく、わたしに残されたわずかなプライバシーを守りたいだけだ」とロキは言った。目は鋭く、顎は固く引き締められていた。つまり、バッキーは彼の気に障ったということだ。もっとも、それは難しいことでもなさそうだった。バッキーはただ肩をすくめ、ロキの目はさらに細くなった。「それで満足か? そろそろ本題――おまえがここに来た理由に移ってもいいか?」バッキーはまた肩をすくめただけで、ロキは鼻から息を吐いた。

「もし魔法が使えたら」とバッキーは不意に言った。「俺を治せるのか?」

 ロキは鋭く彼を見た。「無意味な仮定だ。今のわたしは魔法を使えないのだから」

「できるかどうかを聞いてるんだ。やる気があるかどうかじゃない」

 ロキは少し間を置いた。「おそらくは」と彼は言った。「断言はできない。そういうことを試したことはないからな。おまえの状態から察するに、理論上は可能だが、確信を得るにはおまえの精神に直接触れる必要がある——それはおまえにとって、あまり歓迎すべきことではあるまい」と、辛辣な皮肉を込めて付け加えた。バッキーは光沢のある新しい金属の腕を見下ろし、指を曲げてみた。もしそれで、もう二度と誰かの武器にならずに済むと分かっているなら、その危険を冒す価値はあるだろうか。

 あるかもしれないし、ないかもしれない。もっともロキが言った通り、その問い自体が無意味だった。

「何が起きているのかさえ正確にわかっていないのに、どうやって助けるっていうんだ?」とバッキーはぶっきらぼうに言った。ロキは鼻で笑う。

「助けるのであって、治すわけではない。それに、何を助ければいいのかをおまえが説明してくれれば、こちらとしてもずっとやりやすいのだが」

「あんたのことは信用していない」とバッキーは率直に言った。

「幸いなことに、おまえがわたしを信用する必要はない」ロキの声にはわずかな苛立ちがにじんでいた。「おまえの秘密をアスガルドの誰かに売り渡すつもりはない。わたしにとって何の得にもならないし、利他的な理由でそんなことをするほど、ここにいる誰のことも好いていない。それに、わたしはほぼ常に監視され、力もほとんどなく、そして“ただの人間の兵士”を使うような目的もないのだから」

 バッキーはしばらくロキを見つめ、それから腰を下ろした。「もし俺を利用するつもりがあったら、どうする?」とやがて言った。。ロキは肩をすくめた。

「わたしは、自分を実際以上によく見せようなどとは思わない」バッキーはロキの表情を観察したが、やはり読み取ることはできなかった。

 バッキーは、これは自分がここに来た理由なのだと苦々しく思い直した。他の選択肢は、冷凍睡眠くらいしかないのだから。

「分かった」とバッキーはついに言った。「話はこうだ。ヒドラが関わってる――ヒドラのことは知ってるか?」

「知っている体で話せ」とロキは言った。「続けろ」

「連中は、俺の脳を乗っ取って、言う通りにさせる“一連の言葉”を作った」バッキーは言った。淡々と、事実だけを述べるように。自分を怯ませるまいとし、あの「従え」と心が反応してしまう瞬間や、ジモがそれをしようとしていると気づいた時の、強烈な苦痛と恐怖を思い出すまいとしていた。彼はロキの肩越しに視線を固定し、呼吸を止めないように細心の注意を払った。

「なるほど」とロキは言った。思案しているような声だった。「特定の言葉の並びがひとつ? それは決まった順序で発せられなければならないのか?」

 バッキーはうなずくように頭を動かし、それだけでは伝わりにくいかもしれないと気づいた。「起動用のフレーズは一つだ、ああ。順序についてはよく分からないけど……たぶんそうだと思う」

「で、それが発動した時は? 何を覚えている?」

 バッキーは再び金属の指を動かした。何かにつかみかかりたくなる衝動を抑えるよりは、その方が安全に思えた。「断片的な映像。時々はっきり、時々ほとんど何も。ばらつきがある」

「ふむ」バッキーがようやくロキの顔を見ると、彼は眉をひそめていた。テーブルの上で指を軽く叩きながら、上を見て考え、それからまたバッキーに視線を戻す。「似たような症例を、読んだことがあるように思う。確かめる必要はあるが……もしそうなら、おまえは運がいい。魔術の才能がなくとも、そうした類の攻撃に対する耐性を多少なりとも築くことはできる。もちろん効果は劣るが……」ロキは肩をすくめた。「それでも、何もないよりはましだろう。相手が言い終える前に仕留める時間くらいは稼げるかもしれない」

 バッキーはまばたきをした。大した期待はしていなかったし、ましてやここまで直接的な答えが返ってくるとは思ってもいなかった。確実な方法とは程遠いにしても、現実的な手段に聞こえた。誰かがあの忌々しい赤い本を手に取って、彼を操るのを待つ以外に、自分にできることがあるというのは希望だった。「そんなに簡単なのか」と彼は慎重に言った。

「簡単ではない」とロキは言った。「そのような技術には規律と時間が必要だ。特に訓練を受けていない者にとっては。だが、不可能ではない」どこか満足げな響きがあり、バッキーは彼を見つめた。礼の言葉が喉まで出かかったが、急に、そして理由もなく、警戒心がよみがえり、それを飲み込んだ。

「本当に、ただ退屈だからってだけでやってるのか?」彼は問い詰めた。「それだけが理由か?」

 かすかな満足げな表情は消え、ロキの視線がバッキーに鋭く向けられた。「信じないのか? なぜだ? 悪辣さが足りないか?」

 ああ、まさにそうだ、とバッキーは内心で思ったが、ロキの声に含まれる鋭さが警告であることは理解していた。「ただ、退屈しのぎにしては手間がかかりすぎるように見えるだけだ」と彼は言った。

 ロキは喉の奥で「ハッ」と笑った。「退屈を軽く見るな、ジェームズ・ブキャナン・バーンズ。静けさも過ぎれば狂気を招く」その鋭い笑みは、確かに少し狂気じみていた。背筋にぞくりとしたものが走り、バッキーはそれ以上は何も言わなかった。

「分かったよ」と彼は言った。「そう言うなら」

「では行け」とロキは言い、手首を軽く払って追い払うようにした。「わたしは調べ物がある」

 バッキーは、ロキに命令口調で言われることについて言い返そうかと一瞬考えたが、それだけの価値はないと判断した。立ち上がりながら、再びロキの顔の傷に目をやる。相当痛むはずだが、ロキは一度として顔をしかめる様子すら見せていなかった。それが自分に対する配慮なのかと、バッキーは考えた。「目を外れて運が良かったな」と言うと、ロキは短く笑った。

「狙っていなかったわけではないがな」と言い、左手を持ち上げた。手の甲にも傷跡があり、バッキーは状況を思い描くことができた。ロキの目を狙ってナイフが閃き、それを防ぐために手が上がる。刃は骨に当たって滑り、頬を裂いたのだ。その光景があまりにも鮮明に浮かび、バッキーは腹の奥が不快にねじれるような感覚に襲われた。

「それは確かに、さらに運が良かった」と彼は低く言った。ロキは薄く笑い、バッキーはそのまま部屋を出ていった。


 ソーが、バッキーの客室の扉――もっとも、これがただの客室だというなら、王族用の部屋はどれほどのものなんだろうと考えずにはいられなかった。地下施設や、過密な長屋とは別世界だ――をほとんど遠慮がちと言っていいほど控えめにノックした。

「もっと早く顔を出せず、すまなかった」とソーは言った。「客人をもてなす役目を怠っていたことはわかっている」

 バッキーは肩をすくめた。「あんたは王様なんだろ? やることも多いだろうし、俺は――世話役はいらない」危うく“ハンドラー”と言いかけたが、どちらにせよ必要ないものだ。ソーは眉をひそめた。

「摂政だ」と彼は訂正した。その違いはバッキーにはよく分からなかったが、あえて尋ねるのはやめた。ソーはそれでなくとも十分にストレスを感じているように見えたからだ。「そしてその職務には、他の領界からの客人に十分なもてなしをすることも含まれる」ソーはため息をついた。「だがおまえの言う通りだ。俺は……やるべきことがあまりにも多い」一拍置いてから続けた。「だがおまえは……大丈夫か?」

 何を本当に訊きたいのかは明白だった。バッキーはその問いを無視することにした。「悪くはなってない」と答えた。わずかにブラックユーモアめいた響きを含ませたが、ソーには伝わらなかったようだった。

「それは……よかった」ソーは咳払いした。「ヘイムダルから聞いた。おまえがロキと会い続けていると」

 バッキーは身構えないように努めた。「何度か、な」

「それで……問題は起きていないのか?」とソーは尋ねた。

「いや」とバッキーは答えた。「ただ、あいつから何か引き出そうとすると、レンガの壁に頭を打ちつけてるみたいな気分になることはあるけどな。でも、変な真似はしてない。そういう意味なら」ロキの顔が切り裂かれていたことを言おうかとも思ったが、やめておいた。さすがにソーも知っているはずだ。そういうことは誰かが報告する類のものだろう。ソーは顔をしかめた。

「では、まったく役に立っていないのか」と彼は言い、落胆した様子を見せた。バッキーは自分の手――普通の方の手――がジーンズのほつれ糸をいじっているのに気づき、そのままにしておいた。

「そうは言ってない」とバッキーは言ってから少し間を置き、ソーを見た。「なんか、役に立つかもしれないって考えがあるっぽい」

 ソーの表情がぱっと明るくなった。「本当か?」バッキーは片方の肩をすくめた。「それは――非常に良い知らせだ」とソーは言い、そのあからさまな喜びが、自分のためというよりはせいぜい四分の一ほどにしか向けられていないようにバッキーには感じられた。ロキが改心したふりをしてソーを丸め込むのは簡単そうなのに、なぜそれをしないのかと、ふと考えた。外敵が多すぎるのか。それとも、摂政にはそうした決定権がないのかもしれない。

 ……まあ、関係ないな、と彼は思った。

「案内役をする時間がないなら、どこに行けばいいか教えてくれないか」とバッキーは言い、ソーの高揚には特に触れなかった。「勝手に歩き回って、立ち入り禁止の場所に迷い込むのは御免だからな」

「おまえは王家の客人だ」とソーは即座に答えた。「行きたい場所にはどこでも行って構わない。もっとも、私室に許可なく立ち入るのはお勧めせんがな」と微笑みながら付け加えた。バッキーもそれに応じて笑顔を返した――一応、及第点だったらしい。「だが、もし勧めるとすれば……宮殿の周りには庭園がある。もし興味があれば鍛錬場もあるが、しかし……それはあまり良い考えではないかもしれないな」

「たぶんな」とバッキーも同意した。

「偉大な狩りの戦利品を集めた展示室もある」とソーは言い、観光案内を思い出そうとしているようだった。「それから図書館も、もし興味があるなら……」

「適当に見て回るよ」とバッキーは言った。アスガルド人にもサンドバッグのようなものがあるのだろうか、と彼はふと思う。「問題さえ起こさなければいいんだろ」

「問題などおこらん」とソーは自信をもって断言した。「客人に無礼を働くこと自体が不名誉でなかったとしても、俺の個人的な友人に手出しをする者など誰もいない」

 その範囲はあんたの弟には及ばないらしいな、とバッキーは皮肉めいた思いを抱いた。まあ、ロキの様子を見る限り、火だるまになってても、ソーからは一杯のバケツの水だって受け取らないんじゃないかって気もするが。

 政務に呼ばれて、間もなくソーはその場を離れ、バッキーはひとり取り残された。しばらく考えたあと、彼は外へ出る出口を探しに行った。新鮮な空気が欲しかったのだ。そしてアスガルドの空気はまさにそれだった――あまりに澄み切って鋭く、バッキーはその味を感じられるような気すらした。広い中庭のひとつで、クジャクのような何かを驚かせながら、彼は噴水へと歩み寄り、その中央の像を見上げた。片手に巨大な斧を持ち、もう片方の腕で大蛇のようなものの首を締め上げている男の像で、蛇の口からは水があふれ出ていた。

「ムスペルヘイムの当時の支配者フリムニル率いる火竜軍を、ブーリが打ち破った勝利を記念して制作されたものだ」背後から、なめらかな声がした。バッキーは体を体を強張らせた。振り返りはしなかったが、冷たいものが背筋を走る。「実に壮麗だろう。戦場は何週間もくすぶり続けたと言われている」

「人に忍び寄るものじゃない」バッキーは平坦な声で言った。

「忍び寄っていたかな?」ロキは軽く、無頓着な口調で返し、バッキーの隣に並んだ。「そんなつもりはなかったが」

 ふざけるな、とバッキーは心の中で思ったが、驚きと警戒を表に出さないようにしながら振り向いた。「あんたが箱から出られるようになったとは知らなかったな」と彼は言った。ロキは薄く笑みを浮かべた。

「わたしもだ」バッキーは周囲に目をやったが、中庭には自分たち以外に人影はなかった。ロキの袖は長く、手首の拘束具を隠していたが、この日差しの中ではさぞ暑いだろうと思われた。

「護衛はどうした?」と彼は尋ねた。

「呼び戻された。多少のプライバシーを得たのだ……行儀よくしていたおかげで」ロキは最後の「行儀よくしていた」という言葉を、かすかな、どこか軽蔑を含んだ皮肉な調子で口にした。まるで“行儀のよさ”という概念そのものを嫌っているかのようだった。バッキーは肩に力が入りそうになるのを抑えた。

「それは結構なことだな。顔もきれいなままだし」バッキーは言いながら、前に見たときは生々しい傷があった場所――いまは滑らかで何の痕もない皮膚――へ視線を向けた。

「皮肉交じりの褒め言葉のつもりだとしても、ありがたく受け取っておこう」ロキはほとんど軽い調子で答えた。屋外にいるせいか、全体的に彼は幾分か緊張が解けているように見えた。バッキーは、それが自分を不意打ちしたことで優位に立ったような錯覚を得ているからではないかと思った。バッキーがロキの領域に踏み込んだのではなく、ロキの方がバッキーの領域に入り込んできたのだから。

 その考えに、口の中が酸っぱくなるような感覚が広がった。「もう行くところだ」と彼はぼそりと呟いた。

「おや、そう言わずに」ロキが呼び止める。「無礼になる必要はないだろう。噛みついたりはしない。そんなことをすれば、わたし自身の努力に水を差すことになるではないか? なぜ自分の仕事を台無しにする必要がある?」

「あんたが何を考えて動いてるのかなんて、知るつもりもない」バッキーは振り向ききらないまま言った。「そこまでアタマがおかしいわけじゃない」

 視界の端で、ごくわずかな動きを捉えた。「もちろんだとも」ロキの声は、急に張りつめたものになる。「心の清らかなおまえには、わたしのような歪んだ悪党の思考など、理解できるはずもないからな」

 その言葉に、バッキーは振り返り、平坦な視線をロキに向けた。「ああ」わざと間を置いて言う。「まさにその通りだな」

 ロキの唇が歪み、バッキーは身構えた。言葉によるものであれ、それ以外であれ、何かしらの攻撃を警戒した。しかしロキは、しばらくの沈黙の後、視線をそらした。不満と苛立ちを隠そうともせず、それでも攻撃には出ようとしなかった。バッキーはわずかに落胆した。だが一方で、ロキの表面上の自信が崩れたことには満足していた。

 ――俺は違う、と彼は言いかけた。心清らか、なんてものじゃない。もともとそうじゃなかったし、今ではなおさらだ。だが結局、口には出さなかった。

「探していた資料は見つけた」長い沈黙のあと、ロキがぶっきらぼうに言った。「わたしの見立ては正しかった。おまえが話していたような類のものに対して、少なくとも部分的に封じる手段は存在する。すでに成立しているものを打ち消すことはできないが、今後のさらなる発動を防ぐことなら、可能かもしれない」

 バッキーは鋭く彼を見た。しかしロキは両手を背後で組んで、視線は噴水に向けられたままだ。「“可能かもしれない”?」と問い返した。

「確実なことなどない。とりわけ魔術においてはな。しかもおまえ自身には魔力がない。周囲に満ちている力が、おまえの意思に応じて働くかどうかにかかっている」ロキは肩をすくめた。「“可能性がある”というのが、わたしに言える限界だ」

 バッキーは目を細め、ロキの背中を見つめた。あまりに急な空気の変化に、くらくらするような感覚すら覚える。ロキが本当にこれほど気まぐれなのか(あり得る)、あるいはどちらかの態度が演技なのか、判別がつかなかった。

「周囲に満ちる力に頼る、か」と彼はゆっくり繰り返した。「それはどういう意味だ?」

「それを説明するには、かなり本格的な魔術理論の講義が必要になる」ロキは言ったが、見下すような調子ではなく、ただ疲れているように聞こえた。「あいにく、今それを語る気分ではない」

「あんたなら喜んで講釈を垂れそうなものだが」バッキーが言うと、ロキの視線は、血ではなく水を吐き出している蛇の像に向けられたままだった。

「講釈を垂れるにしても、聞き手に多少は理解がないと意味がない」ロキはどこか遠くを見ているような声で言った。バッキーは彼を見つめ、いっそ両手を上げて立ち去りたい衝動に駆られた。

「なんだよ」代わりに彼は言った。「俺があんたのことアタマがおかしいと言ったのが、そんなに気に障ったのか?」

 ロキの体が強張る。「気に障るためには、おまえの意見がわたしにとって何か意味を持っていなければならない」彼はそう言った。バッキーは鼻で笑った。

「どう見ても意味あるだろ」彼は言った。「そんなに神経質になるとは思わなかったよ」

 ロキは小さく舌打ちのような音を立て、こちらを向いた。「ほう? わたしが、ヒドラなる者におまえの精神を損なわれたと告げたとき、おまえは完全に平静でいられたとでも?」バッキーの体がぴくりと動き、ロキの唇が歪む。「ほらな。誰しも、自分が逸脱している、間違っていると評されて喜ぶ者はいない」彼の唇が、笑みともつかない形に曲がる。「壊れている、とな」

 バッキーは奇妙な揺らぎを覚えた――望んでもいないのに、どこか通じ合うような感覚が一瞬よぎる。彼は何も言わず、ロキは視線を外した。「だが、どうでもいい。わたしは友人を求めているわけではない」

「それなら結構なことだ」とバッキーは言った。「その分野じゃ全く向いてないみたいだしな」

 ロキは鋭い視線を向け、それからほとんど音にならない笑いを漏らした。「まったくだ。そんな才覚、あったとしてもとうに失くしている」かすかな自嘲を帯びた笑みに、バッキーの口元がわずかに緩みかけたが、それ以上になる前に彼は視線を逸らした。

「じゃあ、好きなところをうろつけるってわけか?」とバッキーは尋ねた。

「どこでも、というわけではない」ロキは答えた。「だが宮殿の敷地内であれば、望むままに動ける」――自宅軟禁か、とバッキーは思った。ロキがしでかしたことを考えれば、ずいぶん甘い処遇に思える。アスガルドのために何か相当なことをしたのか、それともソーが甘いだけなのか。もっとも、考えてみれば不思議ではなかった。これまでロキと会っていた部屋には寝台がなかったし、彼が投獄されていると明言されたこともない。自分が勝手にそう思い込んでいただけだ。「もっとも」ロキは乾いた調子で続けた。「人の多い場所には近づかないようにしているし、当面は宴に顔を出すつもりもない。今後一切かもな」バッキーが彼を見ると、ロキはかすかに唇を歪めた。「エーシルは気性が荒い。わたしが王の保護下にあることなど、わたしが死ぬまで“うっかり”忘れてしまうかもしれないな」

 バッキーは体勢を変えた。「どうしてそこまで嫌われてるんだ?」と尋ねた。

「なぜだろうな?」ロキは言い、薄い笑みを広げたが、それは目にはまったく届いていなかった。「アスガルドの名を汚した。彼らを欺いて支配を受け入れさせた。反逆は……数えた限りでも三度。加えてソーの命を奪おうとした。中には、オールファーザーが長き眠りについた責任までわたしにあると思っている者もいるようだ」ロキは肩をすくめる。「好きに選べ。あるいは全部でもいい。ひとはいつだって、スケープゴートを欲しがるものだ」

 横目でバッキーを見やる。「おまえも多少は覚えがあるのではないか。聞く限りでは、キャプテン・ロジャースの庇護がなければ、おまえの民はとうの昔におまえを八つ裂きにしていただろう」

 バッキーの毛が逆立った。その一部は表情に出ていたのだろう、ロキは鼻で笑った。「おや、誤解しないでくれ。我々が“同じ”だなどと言うつもりはない。それくらいの分別はある」

 それも気に入らなかった。「さっきあんたが言ったこと」彼はぶっきらぼうに言った。「俺は違う。“心が清らか”なんかじゃない」

 ロキの笑みは嘲るものに変わる。「心の清らかな者ほど、そう言うものだ」

 バッキーはどう返すべきか言葉を探したが、結局「あんたは俺のことを何も知らない」としか言えなかった。ロキはまた静かに鼻で笑った。

 風に乗って笑い声が届く。ロキはぴんと背筋を伸ばす。その瞬間、肩の位置、顔の表情、立ち方、身のこなし――全てがわずかに変わった。短いやりとりの中で三度目の変化だ。「どうやら、ここでお暇するのがよさそうだ」ロキの声はまた冷ややかで洗練された調子に戻っていた。感情をきれいに取り払った響きだった。「おまえの評判に泥を塗るわけにはいかないからな」

 バッキーは、むしろ引き止めたいような気分にすらなった。他の人間と接するロキがどんな様子なのか――ソーでも自分でもない相手に対してどう振る舞うのか――見てみたかったのだ。ロキは相手ごとに仮面を使い分けているのではないか、と彼は思い始めていた。ひょっとすると会話ごとにすら。どれが本当なのかと考えかけたが、それは深入りしたくない領域のようにも思えた。

「そうか」彼は言った。「またな」無意識に口をついて出たその一言に、ロキは意外そうに目を見開いた。バッキーがまるで「会えるのが楽しみだ」とでも言ったような反応だった。

「……そうだな」しばらくしてロキはそう言い、やがて小道の一つへと去っていった。バッキーはその背を見送り、その動きの滑らかさに目を留めた。戦う姿を一度は見たいもんだ、と彼は少し思った。見応えのあるものに違いない。


 ドアノブに手を伸ばした瞬間、バッキーは何かがおかしいと感じ取り、手を引いた。ほんの一瞬だけためらった後、中へ入ることにした。「もう言ったはずだ」ドアを開けるなり、ロキの声が聞こえた。いつになく声を荒らげている。「おまえのくだらないゲームが、相変わらず退屈極まりないことには安心したよ。それでおまえの妹はどうしている?」

 バッキーはわずかに身を動かし、室内の様子をうかがった。ロキの向かいには一人の女。アスガルドの者にしてはやや小柄で、絹のように滑らかな髪は淡く、ほとんど白金に近い色をしていた。ロキの言う“ゲーム”が何を指すのか知りたいと思ったが、ロキの視線が彼に向けられ、それに気づいた女もこちらを振り返った。

 女の丸みを帯びた整った顔に、ふっと笑みが浮かぶ。「まあ、ロキ。お客様をもてなしているなんて、ひとこと言ってくれればよかったのに」

 全身をなぞるような視線を向けられ、バッキーの肌には虫唾が走った。値踏みするような目で見られること自体は今に始まったことではないが、その奥に潜む飢えのようなものがあり、、それがどうしようもなく不快だった。

「違う」ロキは刺々しい声でぴしゃりと言い放った。奇妙なことに、彼はバッキーと女の間に立つように身を移した。「立ち去れ、アモーラ。これ以上話すことはない」

 アモーラはロキを軽くかわし、バッキーから目を離さずに言った。「でも、このひとには話したいことがあるかもしれないわ」そう言って指を鳴らしたかと思うと、彼女の姿はかき消えた。ロキはしばらく動かずに立ち尽くした後、水差しのところへ歩み寄り、グラスに水を注ぎながら、何やら小声で毒づいていた。

「あんたの友だちか?」とバッキーは当たり障りなく言った。

「違う」ロキはそっけなく答えた。「ほとんど関わりはない」

バッキーはその場を動かなかった。「彼女は何を望んでいたんだ?」

「いつものごとくさ」ロキは苛立った様子で言う。「男と力だ。たいていは後者を手に入れるために前者を求める」彼は鼻に皺を寄せた。「まだヴァナヘイムにいるものだと思っていたのだが」

「彼女も魔法を使うんだな。あんたみたいに」

 ロキは侮辱されたかのように顔をしかめた。「わたしのようにではない」そして不機嫌な色を顔に浮かべながらも、彼は続けた。「第一、彼女は実際に魔法を使える。わたしは……いや、やめておこう。とはいえ、力も技量もわたしほどではない」

「謙虚さはどうかな」バッキーが言うと、ロキはちらりと彼を見たが、気にしないことにしたようだった。それでも明らかに落ち着かず、グラスを置いたあと手を握ったり開いたりしている。バッキーはゆっくりと椅子に歩み寄り、腰を下ろした。

「彼女がここに来たことはソーには言わないでほしい」ロキは唐突に言った。バッキーは身構えたが、ロキはただ小さくつぶやいただけだった。「彼女の帰還を知っているのかどうか……」

「なぜだ」バッキーは言う。「そう言われると、むしろ伝える理由になる」

 ロキは片肩をわずかにすくめた。「聞いていただろう。わたしは彼女の売り込んでいるものに興味はない。だがソーは信じまい。それに、わたしには……」ロキは言葉を濁した。

「あんたのために嘘をつくなら、その理由くらいは知っておきたい」バッキーは言った。ロキは唇をきつく結び、小鼻を膨らませたが、バッキーには手応えがあった。どうやらロキは、このアモーラという人物が自分を訪ねてきたことをソーに知られたくないらしい。それは興味深いことだった。

「彼は、わたしにさらに制限を課す必要があると考えるだろう」ロキはやがて口を開いた。その言葉は、一語一語を無理やり引きずり出されるかのようだった。「たとえば、わたしの魔法を完全に封じる、などだ」

 バッキーは鼻で笑った。「それがどうした?」彼は言った。「自慢の力が使えなくなるとは、がっかりもいいとこだな」

 ロキは、バッキーがただ皮肉を言っただけではなく、本気で侮辱したかのようにびくりと反応し、顔を背けた。その表情は強張っている。「ああ、そうだな」と彼は言った。「実に単純な話だ。おまえから武器を取り上げるようなものだ」その声は、心底から苦々しそうだ。バッキーはわずかに姿勢を正し、目を細めた。

「違うのか?」

 ロキは鼻を鳴らした。「違う」

 バッキーはしばらく待ったが、ロキは黙ったままだった。「じゃあ、どんな感じなんだ」促すと、ロキの口元がひくりと引きつった。

「腕を失ったときのことを覚えているか?」長い沈黙の後、ロキが言った。「最近の話じゃない。生まれ持っての、生身の腕のほうだ。覚えているか?」

 バッキーはときどき思い返そうとすることがあった。痛みや冷たさの断片、漠然とした印象はあるが、はっきりした記憶はない。彼は身じろぎもせずにいた。するとロキは視線を逸らした。

「では、想像してみろ。自分の一部であり、もはや意識することすらないものが、無理やり引き剥がされるのを。それと同じだ。魔法は単なる道具や武器ではない。わたしという存在の一部なのだ」ロキはわずかに身を震わせ、窓のひとつへと歩み寄った。「研究によれば、継続的な魔術抑制は、早ければ十年ほどで深刻な合併症を引き起こす可能性がある。そうした要素を除外しても、影響を受けた術者はしばしば早死にする――時に百年以上も早く」ロキは声色を変えないまま、まるで教科書を読み上げるかのように言いながら、手首のブレスレットをいじった。「もっとも、影響を受けた魔術師のおよそ六割が発狂し、四割が自殺したという事実を考えれば、これらの数値の信頼性には疑問もあるが」

 バッキーはまじまじと相手を見つめた。最初に浮かんだのは「嘘だろう」だったが、それもしっくりこない。「それ、暗記してたのか?」時間を稼ぐためにそう言うと、ロキは感情のこもらない笑いを漏らした。

「調べたのだ」と彼は言った。「最後に図書館の利用を許されたときに――もちろん、付き添い付きだったが。最悪の事態を想定しておくのが好きでね」

「不吉な趣味だな」沈黙の後、バッキーが言った。

「そうかもしれないな」ロキは軽く言い、振り返ると、穏やかな仮面のような表情を整えた。「だが、だからこそアモーラの訪問についてソーには話してほしくない。これで納得したか?」

 バッキーはロキをじっと見据えたまま考え込んだ。もちろん、すべては同情を引くために捏造された話かもしれない。だが直感はそうではないと告げている。それに、ここで口外すればロキとの接触や、彼から得られるかもしれない助力も断たれるだろう。

「そうだな」バッキーはようやく言った。「何も言わないよ」

 再び、あの驚いたような表情が浮かんだ。今度はバッキーが腕を組み、「そんなに驚かれる理由が分からないな」と言った。

 ロキの表情は一瞬で無に帰した。「それほどあっさり承諾するとは思わなかった」

「そもそもあんたは、人にあまり期待していないみたいだな」バッキーは慎重に、感情を抑えて言った。ロキが彼を見る目は、今度はどこか違っていた。値踏みするような視線だった。バッキーは身構える。

「その通りだ」やがてロキは言った。「おまえも、あまり人を信じるタイプではないだろう」

「まあ、そうだな」バッキーの言葉に、ロキの口元がわずかに動いた。何か愉快なことを感じ取ったのかもしれないが、それを口に出すことはなかった。

「では、始めるとしようか」代わりに彼はそう言った。バッキーは身構えないよう努めながらも、太ももの上に手のひらを置いた。何に備えているのか、自分でも分からなかった。

「どうやるんだ?」警戒をにじませて尋ねると、ロキは少しの間じっと彼を見つめ、それから口を開いた。

「魔法とは――おそろしく単純に言えば、あらゆるものの根底にあり、それを取り巻くエネルギーの織り糸を操る能力のことだ。ある種の……まあ、意志の技巧とでも呼ぼうか――セイズマド、すなわち魔術師は、その糸に働きかけることができる。多くは、精神的な干渉や侵襲から身を守るために、最低限の精神的防壁を備えている」

「あんたも?」バッキーは尋ねた。「魔法が使えなくても、それは残っているのか?」

 ロキはかすかに笑みを浮かべた。「幸いなことに、残っている。ずいぶん前に、その術を自分の存在そのものに強く結びつけておいたからな……そう簡単に打ち破れるものではない」一瞬、ロキの表情に何かがよぎったが、それが何なのか、どんな意味を持つのかをバッキーが見極める前に消えてしまった。「たいていの存在は、たとえ魔術の素養がまったくなくとも、初歩的な防御は備えている。それがなければ、あらゆるエネルギーの流れや歪みに晒されて、精神はあっという間に崩壊するだろう」バッキーはわずかに身じろぎした。

「つまり、ヒドラがやったことは……」彼はゆっくりと言った。

「それは重要ではない」ロキが遮った。「すでに受けた損傷を取り除くことは、魔法を用いなければできない――そして、それが許されるとは思えない。仮におまえが望んだとしてもな。もっとも、おまえがそんなことを望むとも思えないが」

「その通りだ」バッキーはぼそりと言い、ロキが今にも自分の頭の中に入り込んでくるのではないかと、思わず身を引きそうになるのをこらえた。

「重要なのは」バッキーの言葉など聞いていないかのように、ロキは続けた。「引き金となる言葉だ。正確な仕組みは分からないが、類似の魔術を考えると……ある人間の意志が他者に継続的に強制されるというよりは、むしろ――そうだな。心が城壁に囲まれた都市だとすれば、その言葉は門番を買収して門を開かせる賄賂のようなものだ」

「じゃあ、その門を閉ざせばいいわけだな」バッキーが言うと、ロキは満足げな様子を見せた。

「その通りだ。魔法を使えば、それが最も簡単だ。だが、魔法を持たぬ者でも、ある程度は世界に小さな干渉を及ぼすことは可能だ。それを比較的容易に行える者もいる。相当な集中力と意志が必要になるし、保証はできないが……」

 ――だが、多少なりとも抗うだけの可能性は得られるかもしれない。バッキーはそう考えた。頭の中の檻の壁を叩き、何とか抜け出して起きていることを止めようと必死だった記憶がよみがえる。しかしそれは、走ってくる列車の前に突っ立って、ただ迫り来るのを見ているだけのようなものだった。

 気づくと、ロキが反応をうかがうような目で彼を見ていた。その表情は、先ほどまでの得意げな色から、わずかに不確かさを帯びたものへと変わっている。バッキーは我に返った。ほかに選択肢はない。そして、これがうまくいくなら――ロキがただ彼をもてあそんでいるのではないとしたら――もし――

 もう一つの選択肢はワカンダで待っている。ティ・チャラの冷凍装置はヒドラのものより快適かもしれないが、それでも冷凍装置であることに変わりはない。

「分かった」彼は咳払いして言った。「やってみるよ」


「意志の力でエネルギーを操る」というのは、実際のところほとんど「瞑想」のようなものだった。つまり……じっとしていること自体はバッキーにとって問題ではなかった。そういうことはいくらでもやってきたし、そわそわするようでは優秀な狙撃手は務まらない。だが、ロキが繰り返し言うように、心を空にして集中するというのは──できそうになかった。

 彼は苛立ちと不機嫌を抱えたままその場を後にした。終盤にかけてロキの物言いがやけに刺々しくなっていたことからして、向こうも似たような気分だったに違いない。バッキーは頭痛を理由にして抜け出したが、ロキはむしろほっとしていたかもしれない。何か進展があったのかどうかは判然としなかったが、どうもなかったような気がしていた。

 何やら祝い事のための宴が開かれると知ったところで、彼の気分は一向に良くならなかった。アスガルドの料理は確かに美味いが、騒がしい話し声と人の密集は、彼のあらゆる本能を過剰に刺激した。最初のときに、どこかのアスガルドの戦士が背中を叩いてきたとき、バッキーは危うくその手の甲にフォークを突き立てるところだった。次は「危うく」では済まないかもしれない。それでも、無礼なことはしたくなかった。

 だから彼は顔を出した。騒々しく、人であふれ、すでに神経は限界まで張り詰めていたところへ、誰かが気の利いたつもりで彼に戦場の話を求めてきた。死からの奇跡的な帰還や、過去の戦いでの勇敢な功績について聞きたがったのだ。

 怒りが、血のように熱く重く喉元までせり上がり、立ち上がって言ってやりたい衝動に駆られた――勇敢な武勲を知りたいだと? なら、旧友を殴り殺したときの話でもするか、それとも親友をもう少しで手にかけそうになったことか、あるいはこれまで自分が積み上げてきた何百もの死体の話でも――

 バッキーは、細心の注意を払ってソーのほうを見ないようにした。自分が何を口にしたのかは分からないが、何かは言ってしまったに違いない。充分に、だ。彼は黙り込んだまま、目の前のまだ半分ほど残った皿をじっと見つめながら、会話の流れが変わるのを待った。そして流れが変わった瞬間、立ち上がって席を後にした。

 しばらくのあいだ、彼はただ歩き続けた。廊下の曲がり角に従いながら、特に意識もせず進んでいく。ようやく足を止めると、目を閉じ、ロキがどう説明していたかを思い出そうとした。焦点を明確にすればするほど、意志の力も鋭くなる。彼はその後半の部分は無視して、ただ心を落ち着かせることに集中した。均衡のようなものを、手に入れようとした。少なくとも、自分にできる範囲で。

 バッキーは肩をそびやかし、向きを定めて、たぶん客室があるであろう方角へと戻り始めた。ふいに、地球が恋しくなった。そしてスティーブのことも。怒りが引いていくにつれ、今度は飲み込むには大きすぎる塊が喉に込み上げてきた。こんなのは理不尽だ。何もかもが。どうして彼らはただ――

「──宴の場をうろつくとは、裏切り者のくせに──」

 角を曲がり、何に出くわしたのかを一瞬遅れて理解したが、すでに遅かった。背をこちらに向けて立っている、上等な服を着てはいるが喧嘩慣れした風の男。そして短い廊下の奥に、逃げ場を失った獣のように追い詰められていたのはロキだった。ロキの視線がバッキーに向けられ、すぐに逸らされる。まるでバッキーなど取るに足らない存在で、認識する価値すらないかのように。

「祝いの場を邪魔するつもりはなかった」とロキは言った。「厨房はこの先にあり、わたしはまだ——」

「その嘘つきの舌を引っ込めろ」と、その荒くれたエーシルの男が声を急激に荒げた。「思い知らせてやる……おい、きさまは誰だ?」

 躊躇が長すぎた。バカだな、とバッキーは思う。なぜすぐに踵を返して立ち去らなかったのか、自分でもわからない。壁際に追い詰められ、抗う術もなく立ち尽くす誰かの姿を見て──(その喩えはやめろ)。

「通りがかりだ」とバッキーは答えたが、暴力が目前に迫っている、その気配に、すでに身体が緊張していくのを感じていた。

「いや、待て。おまえ」と男は言い、にやりと不快な笑みを浮かべてバッキーの方へしっかり向き直った。その笑みは、バッキーの拳をうずかせるのに十分だった。「おまえは……ソーのモータルの客だろう? 来い、この小癪な蛇を片づけるのに手を貸せ」男はロキに向かって躍りかかり、ロキはそれを避けて後ずさった。視線がせわしなく動き、逃げ道を探しているのがバッキーにもわかったが、完全に追い込まれている。金属の指がぴくりと動く。「あやつがおまえの世界にしたことの報いを、少しは味わわせてやりたくないのか?」

 ロキの視線が彼へと素早く向き、バッキーはその目に宿る追い詰められた獣のような光に胃がひっくり返るような感覚を覚えた。エーシルは殺してしまったあとで『ああ、法的にはまずかったな』と言い繕う――ロキがそう言っていたのを思い出す。立ち去れ、と脳裏の奥で声が囁いた。放っておけ。死んで当然のやつじゃないか。

「大して面白い戦いには見えないな」彼は無感情に言った。「一方が反撃もできないんじゃ」

 男は、まるでバッキーが別の言語でも話しているかのように眉をひそめた。「これは戦いじゃない」と男は言った。「戦いは、相手に名誉があるときにするものだ。これはただの――」ロキが男と壁のわずかな隙間を狙って動いた瞬間、男の言葉は怒声に変わった。ロキは最初の荒っぽい一打をかいくぐり、思いのほかしなやかな動きでその脇をすり抜けた。一瞬、逃げおおせるかに見えた。

 だがエーシルは彼の髪をつかんで引き戻し、拳を腎臓めがけて叩き込んだ。ロキは苦痛の声を上げ、バッキーはびくりと身を震わせた。立ち去れ、立ち去れ――

 男がその動きを繰り返す前に、バッキーの金属の手が男の腕をつかんだ。相当に意表を突かれたらしく、男は実際に動きを止め、首を巡らしてバッキーを見た。「もうやめとけよ」バッキーは言った。ロキの呼吸には荒々しい響きが混じっていた。エーシルの男はゆっくりとロキの髪から手を離し、バッキーもその手首を放して一歩下がった。ロキはよろめきながらも、壁に手をついて体勢を保った。

 しかし次の瞬間、その驚きは怒りへと変わり始めた。まずい、とバッキーは思った。衛兵はどこだ。祝宴の騒ぎで何も聞こえていないのか。「モータル風情が身の程をわきまえずに、よくも上位の者の問題に口出ししたな?」男は威張るように胸を張って言った。「まずはきさまを懲らしめ、その後でこの蛇を始末してくれる」

 男がバッキーに向かって突っ込んできた。動きは明らかに鈍っていたが、それでもバッキーの予想より速かった。反射的に身をかわし、体をひねって肘――金属製の方だ――を相手の背中の中央に叩き込んだ。それで倒すくらいはできるはずだった。だがエーシルの戦士はただ呻き声を上げただけで、ほとんど効いていないかのように振り向いた。逃げ道を探す暇もなく、男が再び襲いかかってきた。顔めがけて飛んできた拳をかわしながら思った──ロキはたぶんとっくに逃げてる。で、こっちは疲れが見え始めてて、もうすぐぶちのめされる──

 次の瞬間、頭が石壁さえも割れてしまいそうなほどの勢いで壁に叩きつけられ、跳ね返った。喉には指が巻きついているが、完全に締め上げるほどではない。視界に、肉厚の拳が振り上げられ、顔を狙っているのが見えた。これが昔のスティーブの気分ってやつか、とバッキーはぼんやり考えた。

 だが拳は途中で止まった。さらに驚くべきことに、誰かがエーシルの男をバッキーから引きはがし、鮮やかに背中から地面へと叩きつけた。

 バッキーを解放し、驚愕の面持ちで男を見下ろしていたのはロキだった。ロキはバッキーと、バッキーを襲ったエーシルの男の両方を見比べていた。あんた、そんなことできないはずだろ、とバッキーは思ったが、男はすでに立ち上がっていて、ロキが動いて止めに入ろうとした瞬間、まるでロープの端に引っ張られたように動きを止めた。次の瞬間、重い拳がロキの鳩尾にめり込んだ。バッキーはロキを押しのけ、次の一撃を金属の手で受け止めた。彼はちらりとロキを見やる。ロキは依然として呆然としているようだったが、バッキーと目が合うと、その表情は決意へと変わった。

 言葉はなかったが、何かが二人の間に通じ合った。そしてすべてが──かみ合った。

 バッキーは前に、ロキが戦う姿を一度は見たいもんだと思ったことを思い出した。そしてその思いは間違っていなかった。どうも誰かを守るためでなければ反応できないという制約に縛られていながらも、ロキの動きはなお優雅で速く、そして何より順応性に優れていた。瞬く間にバッキーの動きや戦い方を学び、それにどう対応するかを理解し、結果として敵の均衡を崩し続けた。バッキーの防御に回ることで、攻撃を引き受ける形で戦いを組み立てていく。ロキがこれほど自然に自分と連携していくことに気づいたとき、アドレナリンで心臓が高鳴る以上に、ある種の高揚がバッキーの背筋を走り抜けた。

 そして、あまりにもあっけなく、戦いは終わった。エーシルの男は倒れ、そのまま起き上がらなかった。ロキはその気絶した体を挟んで向こう側からバッキーを見つめ、目を見開き、荒い息をついていた。ほんの一瞬、無防備になったその表情には、困惑、驚き、そしてかすかな笑みを浮かべたがっているような気配が入り混じっていた。バッキーは、自分の生身の手の拳がじわじわと腫れ始めているのを感じていた。

「まあ、面白かったな」バッキーは乾いた調子で言った。ロキは、笑いになりかけた声を、表に出る前に押しとどめたような音を漏らした。

「立ち去らなかったのだな」ロキが言う。バッキーの腹の奥に、曖昧で居心地の悪い感覚がわき上がり、彼は肩をひとつすくめた。

「それともヤツに加勢すると思ったか? まあ、しなかったな。驚いたみたいだな」

「立場が逆だったら、おまえも驚くのではないか?」

「どうだろうな」とバッキーは言った。「でも、俺はあんたじゃない」その言葉を口にした瞬間、ほんのわずかに後悔しかけた。ロキがひるむように身を引き、視線をそらし、表情を閉ざしたからだ。

「多くの者にとっては、そのほうが救いだろうな」ロキは低くつぶやいた。その声にはかすかな棘が混じっていた。「わたしは——」

「止まれ!  オールファーザーの名において!」

 ロキはほんの一瞬だけ目を閉じ、そこへ五、六人の兵が角を曲がって駆け込んできた。バッキーは、ああ、ようやく衛兵が来たと思った。兵を率いる者がロキからバッキーへ、そして二人の間に倒れている男へと視線を走らせ、さらに声を張り上げた。

「手を見せよ、ロキ。その場を動くな」

 ロキがため息をつくのが聞こえた。目を閉じたまま、ロキが両手を上げる。隊長の視線が自分に向いたのを見て、バッキーは一歩後ずさりし、緊張が高まるのを感じた。「ご無事ですか、バーンズ卿?」隊長はやや声を落として尋ねた。バッキーはまばたきをする。

「大丈夫だ」と彼は答えた。実際には拳がじんじんと痛み、あとであざになるに違いなかった。アスガルド人はとにかく強靭なのだ。隊長はうなずくと仲間の一人に合図し、その兵がロキの掲げられた手首をつかんで背後に引き、膝をつかせた。ロキは顎を強ばらせたが、抵抗はしなかった。

「到着するのが遅れてしまい、申し訳ありません」と隊長が詫びるように言った。「手遅れでなかったことだけが救いです」別の兵の一人が倒れている同胞のそばにしゃがみ込み、ちゃんと呼吸はあるが意識はない、と告げた。

 バッキーは間の抜けたようにまばたきをし、状況をつかめずにいたが、隊長はすでにロキのほうへ向き直り、表情を険しくしていた。「それから、おまえだが……ソー王が裁きを下すまでの間、牢に入ってもらう。どうやって拘束をすり抜けたのかは知らぬが、今回は王も慈悲を見せてはくださるまい」ロキは何も言わず、バッキーのほうを見ることもなかった。頭を垂れ、その表情は隠れている。

「彼は俺を守っていたんだ」とバッキーは言った。口にするつもりだと自分でも気づかないうちに言葉が出ていて、気づいたときにはすでに遅く、衛兵たち全員が彼を見つめていた。バッキーは肩をすぼめて縮こまるのをこらえた。身を隠し、目立たないようにしたいという本能が頭をもたげる。「そういうことだったんだ」と彼は少し気まずそうに続けた。「そいつが——」床に倒れている男を指し示しながら、「俺に襲いかかってきた。ロキが引き離してくれたんだ。ぶちのめしたのは俺だ」無理に肩をすくめる。「いろいろ見逃したみたいだな」

「それは本当か?」隊長は、しばらくバッキーを見つめたあと、ロキに向かって言った。ロキは何も答えず、視線を床に落としたままだった。バッキーの胸に、いら立ちが込み上げる。

「わたしが何と答えようと、どうせ嘘と決めつけられるだろう」しばらくしてからロキが言った。その声はかすれていたが、何のせいなのかバッキーには判断がつかなかった。

「俺が嘘をついてるって言いたいのか?」バッキーは言った。ムカついてるふうに言うのは、さほど難しくなかった。内心では、何やってるんだ、あいつのことなんて放っとけよ、と考えている自分もいたが、それではあまりに子どもじみているし、利己的に思えた。ロキは、襲撃者がバッキーに気を取られている隙に逃げることもできたはずなのに、そうしなかった。あの驚いた表情からして、それがうまくいくと分かっていたわけでもなく、咄嗟に、反射的に動いただけなのだろう。それはバッキーの信頼を得るための計算じゃなかった――そもそもロキ自身が言ったように、そんなことをして得られる見返りなど何もない。

「いや」隊長は慌てて言った。「そういうつもりではない……だが、彼があなたを欺いた可能性は」

 バッキーは鼻で笑った。「つまり嘘つきじゃなくて、間抜けってわけか」隊長は言葉に詰まる。バッキーは、まだ意識のないエーシルの男を指さした。「何があったかは話した通りだ。確かめたいなら、そいつが目を覚ましたときに聞けばいい」そいつが自分から、ロキを殺そうとしていたなんて認めるとは思えなかったし、そもそも誰も彼の無事すら気にしていないところを見るに、証言の価値もたかが知れているだろう。「それと、その縛りについてはあんたたちの魔術師に確認するといい」とバッキーは付け加えた。「他人を守るための抜け穴があるってことがわかるはずだ」どうやら、その抜け道の存在は、ロキにも知らされていなかったようだ。

 衛兵はバッキーからロキへ、そして再びバッキーへと視線を往復させた。ロキはまるで呼吸すらしていないかのように、微動だにせず立っている。バッキーは黙って成り行きを見守った。

「部屋へ連れ戻せ」と、やがて隊長はロキを押さえつけている衛兵に言った。「今夜はそこから出ないよう、しっかり見張れ」兵はロキを立たせたまま腕を押さえていたが、隊長が「解放してよい」と付け加えると、ようやく手を放した。

 ロキは手首を軽くさすった。その視線がバッキーへと向けられる。何かを読み取ろうとしているようだった。警戒、困惑、驚き――そう彼は思った。バッキーはほんのわずかに顎を引き、うなずいた。ロキの目が見開かれ、しかしすぐにその顔は無表情に戻った。そして背を向けた。

「なあ」とバッキーは言った。からかい半分だが、半ばは本気で。「ありがとな」

 ロキの頭がわずかに横へ揺れた。それは礼を言われたというより、平手打ちでも受けたかのようだった。一瞬、バッキーは返事など返ってこないだろう、(やっぱりな、この野郎)と思いかけたそのとき、ロキは足を止めた。

「どういたしまして」と彼は言った。声はどこか妙で、振り返りはしなかった。「そして、こちらこそ」

 バッキーはロキの背中を見て眉をひそめたが、そこへ重い足音が響き、ソーが角を曲がって駆け込んできた。後ろにはさらに二人の衛兵が続いている。「ジェームズ」と彼は言い、驚いた様子で周囲を見回した。「襲撃があったと聞いた、ロキが――」

「援護してくれた」とバッキーは言い、まだ意識のないまま運び出されていく男を指さした。「あいつが俺に襲いかかってきたんだ」

「ウルフリックが?」ソーは一瞬驚いたように眉を寄せ、それがすぐに怒りへと変わる。「ならば彼は我が怒りを受けることになる。客人に手を上げるとは――」ソーはそこで我に返ったように言葉を切り、バッキーの言葉の別の部分に気づいた。「待て。今、ロキが――おまえを助けたと言ったのか?」

「ああ、やつを引き離してくれた」とバッキーは答えた。いつの間にか他のエーシルたちも、王に従って廊下へと集まってきている。彼はそれを見て、わずかに落ち着かない様子で視線を逸らした。「まだ他人を守ることはできるみたいだ」

 ソーの表情は、驚きと、痛々しいほどの希望との間で揺れ動いた。彼は廊下を見回す。「彼は、どこに――」

「衛兵が連れて行った」とバッキーは曖昧に手振りで示した。「なあ、俺もう疲れてるんだ、だから……」

「行ってくれ」とソーはすぐに言った。「行ってくれ――本当にすまない、友よ。護衛を付けようか? よければすぐに――」

「いや」とバッキーは即座に答えた。「いいよ、遠慮しとく。俺は……大丈夫だ」弱く笑う。「あんたのせいだとは思ってないから」

「おまえは高潔な男だ」とソーは言った。その言葉にバッキーは思わず身をすくめたくなったが、ソーが衛兵の一人と話し始めた隙に、そっとその場を離れた。この出来事については、すぐに噂が広まるだろうと彼はわかっていた。どんな形で伝わるのかは想像もつかない。ロキと結託していると思われるのか。それとも、不名誉な相手に裏切られた哀れな被害者として描かれるのか? わかりようもないし、いずれにせよ、知るのが楽しみではなかった。

 そしてロキだ。ロキをどう扱えばいいのか。

 それこそ、まさに厄介な問いじゃないか。

 それでも彼は、あのときの感覚を思い出してしまう。ロキが拘束で半ば動きを制限されていたにもかかわらず、互いの動きがどれほど自然に噛み合っていたか。ほとんど継ぎ目のない連携だった。おそらくアドレナリン中毒者の一種なのだろうが、それは──心地よかった。


 手持ち無沙汰になるたび、バッキーはアスガルドの人々を避けるゲームのようなものをやっている自分に気付いた。彼らの多くは彼を興味深い標本か、あるいはペットのように見ているようだった。別の人生なら、その注目を喜んだかもしれない。なにせエーシルの面々は揃いも揃って美形なのだから。だが今では、それがただ不快だった。まるで実験用のネズミにでもされた気分、といったところだ。

 落ち着かず、そわそわした気分のまま(嘘をついたわけじゃなかったとはいえ、宮殿の衛兵が戻ってきて、あの戦いについて問い詰めるのではないかと半ば予想していたのだ)外へ出てみたこともあった。それでもすぐに外にいるのが嫌になり、こそこそと自室へ戻った。だがドアノブに手を伸ばした瞬間、本能が警鐘を鳴らした。武器──何でもいいから──があればと思いながら、一瞬後ずさりすることを考えた。

 いや、と彼は思い直し、ドアを押し開けた。ただし、すぐには中へ入ろうとはしなかった。

「……ああ、戻ってきたわね」

 どこか聞き覚えのある女性の声がした。それと同時に香水の香りがふわりと漂う。それが何の香りかバッキーには分からなかったが、なぜか古い記憶のどこかをくすぐるような感覚があった。バッキーはぴくりとしたが、まだ中へは踏み込まなかった。

「不意打ちの訪問は、あまり好きじゃないんだが」平然とした口調で言いながらも、胸の奥に燻る緊張が声に出ていないことを願った。

「あなたは、そもそも訪問されること自体あまり歓迎しないようだ、という印象を受けていたわ」客人はそう言って笑った。「だから、あなたと話したければ……不意を突くしかないと思ったの」彼女はドアを最後まで引き開けた。その瞬間、バッキーは、どうしてその声に聞き覚えがあったのか思い出した。そして、さらに強く身構えた。

「アモーラ」彼は言った。「だよな? ロキと話してた」彼女はバッキーより少し背が高く、アスガルドの女性としては華奢な方だった――とはいえ、それが大した意味を持つわけではない。それでも彼女は、背後から不意打ちでナイフを突き立てるようなタイプには見えなかった。

 だからといって、安心できるわけでもなかった。

「ええ、そうよ」アモラは、まるで彼が気の利いたことでも言ったかのように微笑んだ。「残念ながらね」どうやら彼女は、今の言葉で彼が笑うか、せめて微笑むことを期待していたらしい。だがバッキーは無表情を崩さなかった。

「──ふうん」バッキーは言って、扉のほうを顎で示した。「出て行ってくれ」

「なんて無作法なのかしら」アモーラは半ば目を伏せながら言った。「わたしと話すのは、そんなに嫌?」

 バッキーの肩がわずかに揺れた。内心では、ああ、話したくないね、と思ったが、それを口に出すことには妙なためらいを覚えた。「何の用だ」代わりに彼は、硬い声でそう言った。

「ただあなたのような……特別な……男性に興味を持ってはいけないのかしら? このアスガルドに、何世代ぶりかに足を踏み入れた二人目の人間。しかも、語るに値する物語を持つ人に」

 バッキーは居心地悪そうに足を動かした。「ロキに何の用だったんだ?」そう尋ねた。

「彼、言わなかったの?」アモーラは驚いたような声を出し、それから頭を軽く振って笑った。「もちろんね。きっとできる限り邪悪な話に聞こえるようにしたのでしょう。ロキは昔からわたしのことをあまり好きではないの」その唇は、愉快そうにほころんだ。「わたしはただ、彼の専門知識をある計画に活かせないかと和平的な提案をしただけ。けれど彼は断った。どうやらロキは、今でも何より自尊心を優先しているらしいわ」

 バッキーはそれを信じなかった。なぜそう思うのか、自分でもはっきり説明はできなかった。ただ、違うと思った。「なんでロキはあんたを嫌ってる?」

「あなたもロキに会ったでしょう」アモーラは笑みを浮かべたまま言ったが、その笑みに鋭いものが混じったようにバッキーには見えた。「彼は、いわゆる“付き合いやすい”性格ではないわ。それにアスガルドに自分と同等の魔術の力を持つ者が他にもいるとなれば、まぁ面白くないのでしょうよ」

 首の後ろの産毛が逆立つのを感じた。ロキについて知っている限りでは、今の話も確かに筋が通っていたが、それでもバッキーは戸口のそばに立ったままだった。まるで、玄関灯のすぐ外で様子をうかがう野良犬のような気分だった。アモーラは小さく首を傾げる。

「でも、あなた……どうしてそんなに警戒しているの? まさかロキに何か吹き込まれたわけでもないでしょうに」

「あんたが招きもしないのに人の部屋にいるからだろ」バッキーは答えた。

 彼女の笑みは甘く、ほとんど戯れるようだった。「一途に追い求める女性を責められるかしら? あなた、女性に従順でおとなしい態度を求めるタイプには見えないもの」

 ここ七十数年、“好み”なんて感覚を持ったことがあるかどうかすら怪しいけどな――と、バッキーは思った。何もかもが曖昧で、記憶の中に失われている可能性もある。それを考えると不意に不穏な想像が頭をよぎる。自分そっくりの小さな子どもが、ヒドラの教室でせっせと洗脳を叩き込まれている光景に、バッキーは震えを押し殺した。今さら、仮定の話をどうこうできるわけでもない。「何であれ、今は追いかけられたい気分じゃないんだ」そう言って、かろうじて引きつった笑みを浮かべながら部屋の中へと入る。ただし、彼女との距離はしっかり取っていた。だが、彼女が一歩こちらへ踏み出すその動きは、腰を揺らすさまも含めて何より獲物を狙う獣の忍び寄り方のようだ。

「本当に?  わたし、とても説得上手なのよ」

 バッキーは唾を飲み込み、さらに身体を強張らせた。「確かだ。あんたみたいな娘なら、ただの人間なんかより、もっといい相手を選べるだろ」

「あら」アモーラの声が低くなる。「でも、あなたは“ただの人間”ではないでしょう、ジェームズ・バーンズ。あなたは、とっくに人間の寿命を超えて生きている。あなたの世界でも稀有な力と技を持つ戦士なのだから」

 バッキーの胃がきりりと縮んだ。だが身体は凍りついたようで、うまく動けない。「……俺の何を知ってる」掠れた声でそう問うと、アモーラは微笑んだ。瞳が輝く。だが、そこにはもう先ほどまでの戯れめいた色はなかった。

「あなたを自分のものにしたいと思うには十分なくらいには」その言い方にバッキーは本能的な反発を覚えた。なのに胸の奥では、心臓が妙にどくりと跳ねてもいた。アモーラが彼を眺める視線は、触れられるのとほとんど変わらなかった。「あなたがわたしのものになったなら……どんな贈り物を与えてあげられるかしら」彼女がさらに一歩近づく。そして手を伸ばしてきて、シャツの下、肉と金属の繋ぎ目をなぞるように指先でそっと触れた瞬間、バッキーは半秒ほど息を止めた。「なんて美しいの」

 バッキーは、笑いになりきれないひきつった声を漏らした。「そいつは初めて言われた」

「ええ」アモラは低く囁きながら、重なり合う金属板を指先で辿る。「彼らはあなたの価値を理解していなかったもの」

 その言葉に、ぼやけかけていた思考の奥で不協和音が鳴った。──彼ら。ヒドラ。バッキーは腕に触れる彼女の指から逃れるように身を引き、意識をはっきりさせようと首を振る。これほど近くにいると、あの香水だかなんだかの香りはほとんど耐え難いほど強い。

「わたしなら違うわ」アモーラは約束するように言った。その鮮烈な緑の瞳には、飢えたような光が宿っていた。「あなたの……才能を、無駄にはしない」

 才能。その声の響きに、バッキーはかつての「soldat(ソルダート)」を、「取得」「抽出」「証人は残すな」を思い出した。バッキーの胃がきつく縮み上がる。彼は両手を上げ、思った以上に乱暴にアモラを突き飛ばした。「嫌だ」彼は言った。「俺はもう、そういうのはやらない」自分の声に滲む切迫感が、はっきり聞こえた。(誰を納得させようとしてるんだ、ソルジャー?) アモーラの表情は最初、驚きに染まり、それが一瞬で怒りへと変わった。そのあまりの激しさに、バッキーは半ば本気で、自分が焼き殺されるのではないかと思った。

 だが次の瞬間、彼女の顔は完璧なまでに無表情になった。

「わたしは、許可もなく触れられることには普段寛容ではないの」先ほどより明らかに冷えた声だった。「けれど今回は許してあげる。あなたの……ミッドガルド人らしい無知に免じてね」アモーラは一歩下がり、顎を上げる。「まあ、残念だこと。本当に」優雅な身のこなしで身を翻した。「もし自分の間違いに気づいて考え直したなら……その時は、受け入れてあげることを考えてもいいわ」

「そりゃどうも」バッキーは言った。心臓はいまだ激しく脈打っていたが、何に反応しているのか、自分でもよくわからなかった。アモーラはドアの前で一瞬立ち止まり、何かを言うかと思われたが、そのまま黙って出ていった。バッキーはよろめきながら椅子までたどり着き、腰を下ろすと、膝の間に頭を落として必死に息を整えた。浅い呼吸を何度も繰り返し、ようやくもう少し深く吸えるようになる。そうして少しずつ呼吸を整えていき、やがて部屋がぐるぐる回っているような感覚も収まっていった。

 ――これからは背後に気をつけないといけない。そんな予感がした。彼女は、拒絶を素直に受け入れるタイプには見えなかった。

 突然、バッキー自身もここにいたくないと思った。フード付きのパーカーを引っ掴んで、暑さも気にせず羽織る。アスガルドでは目立たなくなることはなかったが、少しは気が紛れる気がした。方向感覚には自信があったおかげで、彼は王家の区画までたどり着き、ソーの部屋の扉をノックした。中からくぐもった返事が聞こえてきて、少し意外に思う。

 ソーのことをよく知っているわけではない。だが少なくとも、一緒にいて気疲れする相手ではなかった。しかも、誰かに絡まれそうになったときには、格好の盾にもなる。

 あるいは、万が一アモーラが戻ってきた場合にも。

 扉を試してみると、鍵はかかっていなかった。中へ入ると、机に身をかがめ、何やら法的書類らしきものをしかめ面で読んでいたソーが顔を上げる。そして笑みを浮かべた。「おお、ジェームズ・バーンズ! 参議の一人ではなく、友の顔が見られるとは嬉しい限りだ。最近はやたらと『処理すべき案件がある』と告げにくる者ばかりでな」

「バッキーだよ」

 彼は訂正したが、ソーが呼び方を変えるとはあまり思っていなかった。馴れ馴れしすぎるとでも思っているのかもしれない。バッキーはどうにか弱々しく笑い返す。「忙しいなら……」

「いやいや」ソーは首を振った。「おまえとちゃんと話そうと思っていたのだ――ほんの二言三言ではなくな」その声音には申し訳なさそうな響きが混じる。「改めて詫びよう。俺は良いもてなし役になれていない。父上はこうしたことを実に容易そうにこなしていたが、実際には……」ソーはため息をつき、それから気を取り直した。「だが、だが、おまえがここに来たのは俺の愚痴を聞くためではあるまい。何か問題でもあったか?」眉をひそめる。「何かまた……襲撃でも?」

「いや」バッキーは即座に答えた。だがその直後、アモーラのことが頭をよぎる。あれは……襲撃、というのとは少し違う気がした。なので彼はその考えを振り払い、「いや、そういうのはない」と繰り返した。

「それは良かった」ソーはきっぱりと言った。「では、ウルフリックの……敵意は、単なる特異な例だったと考えてよさそうだな」そこで彼は一度言葉を切り、横目でバッキーを見やった。それから少し慎重に続ける。「正直に言えば……ロキがおまえを助けたと聞いて、俺は嬉しかった」

「だろうな」バッキーは言った。手を落ち着きなく動かさないよう気をつけながら、椅子に腰を下ろす。「ロキ自身も驚いてたっぽかった。自分がそうしたことに驚いたのか、それともできたことに驚いたのかは分からないけど」

「そのほうが良いのかもしれん」ソーはそう言ってバッキーの方へ向き直り、しばらく思案顔になる。「打算や計算の末ではなかったのなら、なおさらな」バッキーは肩をすくめた。その件については、あまり踏み込んだことを言う気になれなかった。ソーはため息をつき、視線を落とす。「すまない。おまえは俺がロキのことをうじうじ考えているのを聞くために来たわけでもないな」

「いや、実は」バッキーは口にしてから、自分でも少し驚いた。「そういうところ、ある。ちょっと気になってさ。あいつ、どういう奴なんだ?」

 ソーは完全に面食らった顔をした。バッキーは笑いそうになる。それは、自分がロキを庇ったときにロキが浮かべていた表情とそっくりだった。「……どういう意味だ?」少し間を置いてソーが言う。その声色も表情も、慎重なものへ変わっていた。バッキーは肩をすくめる。

「いや。ただ、ところどころ話が抜けてる感じがするんだ。地球を襲撃して負けた、ってところまでは知ってるけど、それ以降のことは全然」

 ソーはゆっくり息を吸い、吐き出した。「それは……俺の口から語るべき話ではない」彼は慎重に言葉を選ぶ。「多くは……ロキの許しなしに語るべきではないことだ」

 ということは、たぶん聞けないままだろうな――バッキーはそう察した。「大まかな流れだけでも、今よりはましだよ」そう言った。

 ソーは頷き、表情をより厳粛なものへと変えた。「それなら……話せる。ロキがアスガルドへ連行された後、父は彼に終身禁固を言い渡した。……甘い処分だと言う者もいるだろう。だが俺は、そうは思ってない」どこか弁護するような口調だったが、バッキーは反論しなかった。するとソーもわずかに肩の力を抜く。「ダークエルフがエーテルを求めてアスガルドを襲撃した。エーテルはジェーンに取り憑いていて……そして母上が殺された。俺はロキを牢から解放し、我々を助けてもらおうとした。だが彼は……命を落としたように見えた」

「でも、そうじゃなかったんだな」とバッキーは言った。ジェーンが誰かは分からなかったが、今は重要ではないと思った。

「そうだ」ソーは続ける。「……死んではいなかった。だが、俺がそれを知ったのは……後になってからだ。彼は今でも、すべてを話してはくれんが、父がオーディンスリープに入っている間、しばらくアスガルドを統治していた。父をあの状態に追い込んだのが彼なのか、それとも単に機に乗じただけなのか、俺には分からん。だが……」ソーはそう言って首を横に振り、眉をひそめた。

「それで……減刑か」バッキーが言うと、ソーは息を吐く。

「彼はダークエルフとの戦いで俺を助けた。俺の命も救ってくれた。それに……正当な立場ではなかったにせよ、彼はアスガルドをよく治めていたし、彼が父に危害を加えたとは思っていない。もしそうしていたのなら、黙っているはずがないからだ」

 バッキーは椅子にもたれた。「ロキが本当にあんたの父に何かしてたなら、どうだって自慢してただろうしな」

「いや……自慢、というのとは違う気がするな」ソーは言った。「どちらかと言えば……俺に突きつけるだろう。自分はもはや俺の弟ではなく、俺の愛情など欲していないのだと――彼自身がそう主張していることの証明としてな。彼がそれをしなかった――つまり、ほのめかすにとどめ、言葉にはしなかった――ということは、彼がすでに存在していた状況を利用した可能性のほうが高いのではないかと俺は思うのだ。もっとも、それが特段ましというわけでもないが」と、彼はすぐに付け加えた。

 バッキーは肩をすくめた。「俺には、違いがあるように思えるけどな」彼はまたしても、なぜロキが自分を助けることに同意したのかを考え始めていた。『退屈しのぎ』という説明ではもはや納得できなかった。そもそも、自分はロキという人間を理解するのに必要な材料の、四分の一も持っていないのではないか――そんな気さえしてくる。

「……ロキは、その……どうだ?」ソーが訊ね、それから言い直した。「おまえに対しては」

「彼は……まあ、普通だな」バッキーは少し身じろぎした。「本気で助けようとしてるように見えるよ」

 ソーの表情が明るくなる。とはいえ、その笑みはほんのかすかなものだった。「それは良かった。では……うまくいきそうか?」

 バッキーは肩をすくめた。「さあな。たぶん」

「そうなることを願っている」ソーは心からそう言っているようだった。「それと……もしロキとの間で何か問題が起きたなら、俺に話してほしい。ロキは俺の弟だが……彼が邪悪にも狡猾にもなれることは承知している。おまえを助けることで、何か個人的な利益を得ようとしている可能性も考えた。もっとも、それが何であるかは、俺にもまるで見当がつかんのだが」

 バッキーの脳裏に、ロキが逃げ出す代わりにあの拳を受け止めた場面がよみがえった。あの一瞬に交わした視線。自分の戦い方に即座に適応した時に感じたあの連携の感覚。ロキの、外面への執着。庭園で他人の気配を察した瞬間、何事もなかったかのように全身の雰囲気を切り替えたこと。「心の清らかなおまえには、わたしのような歪んだ悪党の思考など、理解できるはずもないからな」と言った時の口調。それから、なぜ刑が軽くなったのか、その理由に触れようとしなかったこと。もしロキが同情を買おうと思えば、きっとできるのだろう――そんな気がした。少なくとも、ソーは簡単に情にほだされそうに見える。

 単なるプライド、という可能性もある。それなら筋は通る。

 あるいは、別の何かかも。

「俺にも分からないな」しばらくして、バッキーは言った。「ただ、面倒くさい話なのは間違いないと思う」

 ソーは笑った。だがその響きには苦味が混じっていた。「それについては、疑う余地もないな」


「意識が逸れている」ロキが言った。その声が、ようやく雑念を追い払えたと思った瞬間にバッキーの頭の中へ割って入った。バッキーは眉をひそめながら目を開けた。

「それが今やるべきことじゃないのか?」

「違う」とロキは言った。「おまえが目指すべきなのは、空っぽでありながら集中した精神だ。同じことではない」彼は少し鼻を鳴らした。「おまえは戦士だったのだろう。こういう訓練をしたことがないとでも言うつもりか?」

「同じじゃない」とバッキーは言った。だがそう言いながらも、彼は標的を待ちながら半ば夢遊状態に入るあの感覚を思い出していた。その記憶はわずかに吐き気を催させたが、それでも役に立つ類のもののようには思えた。彼は息を吸い、ゆっくり吐き出した。「そもそも、効果があるってどうやって分かるんだ?」

「分からない」とロキは言った。「少なくとも、誰かがおまえを攻撃しようとするまでは確信できない。だがわたしは、さしあたり、おまえのやり方が正しいかどうかの判断はできる」バッキーが眉をひそめると、ロキは両手を広げた。「わたしが魔法を使えれば、おまえを試すこともできたのだが――見ての通り、今は使えない」

 バッキーは少し不機嫌そうに身を引いた。「つまり、無意味に頭痛を起こしてるだけかもしれないってことか」

「いや」とロキは言った。「無意味ではない」その表情は少し真面目になり、苛立ちよりも思索的な色合いを帯びた。「たとえ完全には何もできなかったとしても……以前にも言ったように、大事なのは、より恒久的な解決策を見つけるまでの一瞬を耐えることだ。おまえにはそうしたスキルが多少はあるのではないか」

 バッキーの身体がぴくりと動いた。「多少はな」と、彼は感情を交えずに言った。頭が痛み始めていて、それは顔にも出ていたのだろう。ロキは床に座っていた姿勢を解き、水をグラスに注いでからこちらへ歩いてきて、それを差し出した。バッキーはそれを受け取り、半ば閉じた目でロキを観察した。

 二人とも廊下での騒動については何も口にしていなかった。だが、ロキが自分を見る視線にはどこか以前と違うものがあるようにバッキーには思えたし、以前よりもわずかに刺々しさが和らいでいるような気もしていた。あの件について切り出そうかとも考えたが、最初に話題にするのは嫌だった。

 ロキはその場を離れ、片方の手のひらを擦っていた。バッキーにはその仕草が、緊張している時の癖だと分かった。バッキーは動かず待った。ロキが何かを言おうとして気持ちを固めているのが感じ取れたからだ。

「ひとつ、聞いてもいいか?」ロキは唐突に言った。バッキーはロキの背中に向かって眉を上げた。

「わざわざそう訊くこと自体が意外だな」と彼は言った。「衛兵にあんなこと言った理由か? 嘘は言っていない」

 ロキは振り返り、瞬きをしてから、首を振りながら小さく手を振った。「いや、違う——それではない。だが……おまえが行動してくれたことには感謝している」そう言うと彼の目線はどこか所在なさげに逸れた。「いや、聞きたかったのは……おまえの経験についてだ」

 テーブルの方へ視線を向け、意図的にこちらを見ようとしないロキを、バッキーはじっと見つめた。「俺の経験、ね」とバッキーは平坦な声で言った。「ていうと?」察しはついていたが、ロキがどう言葉にするのか聞きたかった。

 ロキの表情がわずかに揺れた。「おまえが、あの……ヒドラという組織に支配されていた時のことだ」と彼は言った。「どんな……感覚だったのか」

 バッキーの胃がきりと縮み、最初に湧き上がった衝動は、身を丸めるか逃げ出すかだった。だがそのどちらもすぐに過ぎ去り、彼は無表情を保った。「どうしてそんなことを知りたい?」

 ロキは顔を背け、バッキーから表情が見えないようにした。「おまえが自分を守る方法を、もっと正確に判断する助けになるかもしれない、と言うこともできる」

「でも実際は違う」とバッキーは言葉を継いだ。ロキは黙ったままで、バッキーは長いこと彼を見つめ続けた。ロキが考え込んでいるのか、それともただ待っているだけなのか、彼には分からなかった。

「別に、覚えてないわけじゃない」と彼は言った。「覚えてる。だけど、夢を思い出すみたいな感じだ。夢を見てるってどこかで分かってるのに、目を覚ませない、そういう夢に近い」彼は首をコキコキと鳴らした。「自分がどうだったかっていうと……なんだろうな。なんというか、ほんとうの自分が閉じ込められて中で叫んでたわけじゃない。意識だけが乗ってるって感じでもない。ただ……俺は……」彼は言葉を切り、唾を飲み込んだ。ロキがこちらを向いた気配がしたが、バッキーは目を逸らし、壁を見つめた。「奴らの兵士だった。逆らうなんて考えられなかった。というか、ほとんど何も考えられなかった。全部が――灰色だった。任務以外は」胃がきつく捩じりあがる。「兵士っていうより、むしろ武器だった。本当に。何か大事な仕事を確実に終わらせたいときに、引っ張り出して、解凍して使うような」

「変貌というより、抹消だったのだな」とロキは低く呟いた。「おまえは、ほとんど自分自身ではなかった」その声の静けさに驚いて、バッキーはロキを見た。ロキは……考え込んでいるように見えた。恐怖しているわけでもなく、そしてバッキーが本当に恐れていた反応――哀れみでもなかった。彼は床から立ち上がり、椅子のひとつまで歩いて腰を下ろした。

「それでも、あれは俺だった」とバッキーは言った。

「まぁ、」とロキは言い、口元の片端を皮肉っぽくわずかに吊り上げた。「どこまで剥ぎ取られて、なお“そのひと本人”と呼べるかという点は議論の余地があるな。だが、その議論におまえが興味を持っているとは思えないが」

「まあな、別に」バッキーは、その点については大体折り合いをつけていた。どれほど自分に自由意志がなかったとしても、実際にそれをやったのは自分自身だった。彼は少し身じろぎした。「率直に答えてくれ」

「わたしはめったに率直な答えはしないが」とロキは言った。その口調は乾いていた。

「今回はくれよ。あんた、自分がやったことはヒドラのやったことよりマシだと本気で思ってるのか?」

 ロキはしばらく黙っていた。どうやら真剣にその問いを考えているようだった。バッキーには彼の顔からは何も読み取れなかった――何を考えているのか、まったく分からなかった。

「いや」とやがてロキは言った。「本質的には、変わらない」バッキーは少し驚いた。もっと正確に言えば、ロキがそれを口にしたことに対して驚いた。「違いはある――そう言うなら分かる。だが“より良い”かと言われれば……」彼はごく小さく、皮肉げに息を吐くように笑った。「少なくとも、かつてのわたしの従者たちはそうは思わないだろう」

 バッキーの脳裏に、スティーブの友人――バートンの姿がよぎった。名指しはされていなかったが、されるまでもなかった。「たぶん、な」

 ロキは半ば笑みを浮かべた。その表情は、バッキーにはどこか物悲しく映った。

「そう、おまえはそうは思わなかった」

 バッキーは自分のあの時の反応を思い出し、鼻で笑った。「ああ、まあな。今でもその考えは変えてない」

「別に、その考えを変えろとは言っていないが?」

 バッキーは椅子にもたれ、ロキをじっと見つめた。「あんた、これからどうするつもりなんだ?」

 ロキは横目で彼を見た。「どうする、とは?」

「ああ。これから何をするつもりなんだって聞いてる」

 ロキは眉を上げた。「これは、“何か邪悪な計画を企んでいるのか”と探りを入れているつもりか? 安心しろ。わたしはもうミッドガルドにはさほど興味がない。その心配は捨てておけ」

 バッキーは肘をテーブルについた。「俺は、“何をしないつもりか”なんて聞いてない」

「わたしに計画があると決めてかかっているな」とロキは軽い調子で言った。「別にない。近頃は計画を立ててもろくな結果にならなくてね。成り行きに任せるというやり方を試している」その笑みは眩いほどに作り物めいていて、バッキーは軽く苛立ちを感じたが、その感情が引くまで待った。

「つまり何だ」と、彼はゆっくり言った。「誰かがうっかりあんたを殺すまで、ほとんど無防備なままアスガルドをうろつきまわるつもりか?」

 ロキはゆるりと肩をすくめた。「それの何が悪い?」

 バッキーは目を細め、眉をひそめた。「俺たち、正直に話す流れになってたと思ってたんだが」

 ロキの顔がほんのわずかにバッキーの方へ向いた。その表情は奇妙だった。

「誰が、わたしが嘘をついていると言った?」バッキーはぴくっとわずかに身を引き、一瞬……虚を突かれた。ロキの唇が、ごく小さく、感情のこもらない笑みに歪む。「最初におまえと話した時、おまえは“わたしの頭上には剣がぶら下がっている”と言ったな。間違ってはいない。時々思うのだよ――その剣を吊っている糸を、自分で断ち切ってしまった方がいいのではないかと」

 バッキーの胃のあたりに、新たに重苦しい塊が現れ、皮膚の上を何かが這うような感覚が走った。ロキがあまりに平然と語るので、最初は嘘だと思った。だが、なぜそんな嘘をつくのかが分からない。ただ混乱させたいだけかもしれなかった。だが、その下にあるものは――妙に合点がいった。あの投げやりな態度、孤立。そしてたぶん、今こうしていることさえも。贖罪――あるいは、それに類する何か。

 それは、バッキー自身もかつて考えたことだった。比較的自由を得たばかりの頃、ほんの短い間だけ。「あんた、本気で言ってるんだな」と、彼はゆっくり言った。

「考えたことがないわけではない」とロキは言った。「別に構わんだろうに」何かがバッキーの顔に表れたのか、ロキは小さく笑った。「いや、どうか遠慮してくれ。わざわざわたしを思いとどまらせる理由を探そうなどと思わなくていい。すでにそのほとんどを検討済みだ」

「じゃあ、なんでまだここにいるんだ?」バッキーは尋ねた。

「優柔不断? 臆病? それとも単なる意地か? 好きな理由を選べばいい」ロキは肩をすくめ、物憂げと無関心が入り混じったような奇妙な表情を浮かべ、唇にはごく薄い微笑。「正直に言えば、成功の確信が持てないというのもある。全てを見通す監視者がどれほど厳密にわたしを見張っているのか分からなくてね、それに、もしまた死の淵から引き戻されるようなことがあれば、それはそれは実に惨めなことだろうからな」

 バッキーの胃が激しくねじれる。「諦めてるようにしか聞こえんな」と彼は言った。自分でも妙な声だと思ったが、ロキは特に気づいた様子もなかった。

「ゲームの盤上にいるならば、投了の頃合いも見極めねばならん」とロキはこともなげに言った。「それに――別に確定した話ではない。ただ、そういう考えが頭をよぎり、暇潰しに弄んでいただけだ」ロキは気怠げに片手を振った。まるで自殺を考えていたのではなく、ただ夢想の話でもしているかのように。

「……それ、ソーに伝えとくべき類の話に思えるんだが」バッキーはそう言いながら、自分が二人の取り決めを破ったことを自覚していた。しかしロキはバッキーの脅しと受け取られるような発言を、特に気に留めていない様子だった。

「好きにするといい。だが、大して何も変わらない。彼を動揺させるくらいのものだ」ロキはごくかすかに笑った。「せいぜい一週間だよ、ジェームズ・バーンズ。そうすれば、これらはすべておまえの問題ではなくなる。わざわざ自分から関わり合いになろうとする性分にも見えんがな」

「そんなつもりはないさ」バッキーは答えたが、声が少し荒くなりすぎた。「ただ……こう、何か、無駄なことのように思えるんだ」

 ロキは笑った。「そう思うか? そうだな。その意見は覚えておこう」唇を歪めるように笑う。だが、バッキーの腹の奥の重苦しさは消えなかった。「おまえは面白い男だな、バーンズ。それだけは確かだ」

 バッキーは無理やり肩をすくめてみせた。「退屈よりはマシだろ」

 ロキは親指を一瞬だけ唇に当てた。「そうだな」と彼は言った。「まったく、その通りだ」


 バッキーはロキとの”セッション”を終えて、心ここにあらずという様子で――そして、はっきりと自覚できるほど――動揺していた。自分がアスガルドを離れたあと、ロキはどうなるのだろうと、つい考えてしまう。関係ない、と彼は自分に言い聞かせた。おまえの知ったことじゃないし、もうおまえの問題でもなくなる。だが、その思いは彼の中でくすぶり続けた。あいつを野放しにしたまま、しかも反撃もできない状態にしておくのが、破滅の種になり得るって誰も気づかないのか? 少なくともソーは、何が起きているか知っているはずだ。止めなければ事態は悪化する一方だと分かっているはずだ

 それに、いったん事態が動き出せば、ロキが決して事態を収めようとはしないだろうとバッキーは感じていた。ましてや、生死の境であえて綱渡りしているような状態ならなおさらだ。気の短いエーシルの戦士を何人か挑発するだけで、手っ取り早い「終わり方」になるかもしれない。

 これは何かの――土壇場での清算なのだろうか、と彼は思った。過去の因縁に決着をつけるとか、過ちを正すとか、借りを返すとか。もしそういうことなら、自分が地球へ戻ったとき……

 だが、それはあまりにも自意識過剰な考えだった。ロキはこれまでだって、十分うまく生き延びてきたように見える。たった一度の妙な会話を深読みしすぎているだけかもしれない。あるいはロキは、単に彼の頭をかき回して遊んでいただけなのかもしれなかった。

『時々思うのだよ――その剣を吊っている糸を、自分で断ち切ってしまった方がいいのではないかと』もし何もかも避けられないことだと思っているなら、いっそ先へ進んでしまいたくなる気持ちも、バッキーには理解できた。

 くそったれ、とバッキーは思った。ソーに話すべきだ。

「そこの者!」背後から声がかかり、バッキーは振り向きざま、全身を強張らせた。だが、それはただの宮廷警備兵だった。(“ただの衛兵”――とはいえ、それで安心できるわけでもない。)「ソー王子がお呼びだ」

「どんぴしゃのタイミングだな」バッキーは肩を回しながらぼそりと言った。「何の用でだ?」

「王子からは何も」衛兵は答えた。「さあこちらへ。急ぎましょう。急を要するご様子だった」

 バッキーの腹の底がきゅっと縮み上がり、全身に衝撃が走った。地球で何かあったのか? スティーブたちに何か問題が? もしかしてロスとその手先たちが彼らを見つけて、バッキーが匿われていると踏んだのか――「どこだ」低く唸るような声になった。

「こちらです」衛兵はてきぱきと言い、バッキーはそのあとを急いで追った。

「何が起きてるか知ってるのか?」彼は尋ねた。「何でもいい。何があった? ソーは何て?」

「わたしは隊長ですらありませんので」衛兵は申し訳なさそうに言った。「何もお伝えできません。ですが、すぐにお分かりになるかと」

 さらに別の廊下を曲がったところで、バッキーは気づいた。宮殿のこの辺りには見覚えがない。首筋がちりちりする。だが衛兵は立ち止まり、一つの扉を示した。

「こちらです、殿。ソー王子がお待ちです」

 バッキーは足を止めた。本能が警鐘を鳴らしている――何かがおかしい、と。だが、それはただの恐怖、いつもの被害妄想だ。それに、もし地球で何か起きたのだとしたら……彼は扉を開けた。

 最初、誰もいないように見えた。部屋は使われていない様子で、調度品には埃が積もっていた。違う、と鋭く閃くようにバッキーは悟った。ソーは俺を呼んでいない。罠だ。扉のほうへと向き直ったその瞬間、扉が目の前でバタンと閉まった。とっさに近くの花瓶(重い。武器代わりにはなる)へ手を伸ばしかけたが、そこで固まる。

 身体が動かない。動くところを思い描き、筋肉へ命令を送るが、まるで周囲の空気が固体に変わり、身体をその場に縫い止めているかのようだった。かろうじて動かせる目で、部屋にただ一人いた人物が椅子――もちろんその椅子だけは埃一つない――から立ち上がる姿を捉えた。

「ジェームズ・バーンズ」アモーラが言った。「またお会いできて嬉しいこと」

 バッキーの血が凍った。再び動こうとしたが、やはり駄目だった。「こっちは同じことは言えそうにないな」彼はどうにかしてそう絞り出した。アモーラの笑みは広がったが、そこにはもはや甘さの欠片もなかった。彼女の目は冷たい鋼のようだった。

「あなたはわたしのことを知らないでしょうけれど、わたしはめったに拒絶されることがないの」アモーラが言った。「あなたがわたしの申し出を断ったことには……本当に失望したわ」

 バッキーは笑みを無理に作った。「なぁ、こういうのって、ただあんたが必死に見えるだけだぞ」

 その言葉に怒りが返ってくるものと思っていた。だが彼女の笑みは、たださらに広がっただけだった。「最初の申し出を受けるべきだったのよ」彼女は声を低くし、ほとんど囁くように言った。「わたしなら、あなたを大切にしてあげたのに、兵士さん。けれど、ミッドガルド人の言い回しを借りるなら、“猫の皮を剥ぐのに道は一つじゃない”ってね」

 バッキーの心臓が跳ねた。彼はもう一度動こうとしたが、びくともしなかった。抗うための手応えも、力をぶつける相手もない。

「下がれ」アモーラが歩み寄ってくるのに、彼はほとんど唸るように言った。「俺に近付くな――」

 “明晰さ”。それを突然思い出した。空虚で、研ぎ澄まされた状態。彼は目を閉じ、その状態に到達しようとした。そこへ沈み込もうとした。もし、もしこれができれば──できれば──

 アモーラの掌が頬に触れた。脈拍が跳ね上がる中、彼は身をよじろうとしたが動けず、落ち着きなど見出せず、満足に息すらできなかった。馬鹿だ、と彼は思った。この救いようのない大馬鹿野郎。

 ヒドラの時とは違った。彼女は、ハリケーンのように脳を蹂躙するのではなかったが、それでも頭の中に入ってくるのは分かった(出ていけ 出ていけ 出ていけ)。彼女がじわじわと入り込んでくる。すべてが薄れていく、遠のいていく(頼む、いやだ、もう二度と、もうごめんだ)。やがて彼は力を失い、荒い息を吐きながらぐったりした。

「ほら」アモーラが囁いた。優しく彼の頬を撫でる。「そんなに難しいことじゃなかったでしょう?」

 彼は何も言わなかった。言うべきことなどなかった。なぜ自分が抵抗していたのかも、思い出せなかった。

「さて」アモーラが囁いた。「言葉があるでしょう? あなたをわたしのものにする言葉。わたしの必要とする武器へ変える言葉が」

 バッキーの身体がふらつく。彼女に言葉を渡したくはなかった(もちろん彼は望んでいた、なぜなら彼女がそれを望んでいたからだ)。それでも、言葉は彼の心に浮かび上がってきた。ジェラニエ。ルジャヴェット。スィムナツァチ。ラススヴェート。ペーチ。デヴィャチ。ドブロカチェストヴェンナヤ。ヴァズヴラシェーニエ・ダモイ。アジン。グルゾヴォイ・アフタモビリ。

「ああ」彼女の声が聞こえた。「とても良いわ。本当なら、あなたをわたし自身のために作り変えてみたかったのだけれど、ジェームズ・バーンズ……時間がないの。だから、ヒドラのウィンター・ソルジャーで我慢するとしましょう」

 違う、と彼は思った。だが、その思考は鈍く、遠く、霞の向こうにあるようだった。意味を持たなかった。彼には抗うすべがなかった。

 バッキーは、消えた。

 アモーラは彼の目を見つめ、満足げにうなずいた。「いいわ」と再び言った。その指が金属の腕をなぞり下り、彼はぴくりと反応する。「さあ。これからあなたが何をするかを教えてあげるわ。あなたはソーのところへ行き、自分は去ることにしたと伝えるの。怪しまれてはだめよ。突然の別れにも、もっともらしい理由くらい考えられるでしょう?」彼は理解を示すようにうなずいた。「それから、わたしのところへ来なさい」アモーラは言った。「新しい装束を用意してあげる。わたしの新しい戦士に相応しい武器もね」

 彼は再び頷いた。余計な言葉など必要ないと思ったからだ。彼女は眉をひそめた。「返事をしなさい、兵士」

「はい」と彼は言った。アモーラは首を傾げた。

「はい、レディ・アモーラと」

 時間の無駄だ、と彼は思った。だが「はい、レディ・アモーラ」と言った。

 彼女はごくわずかに眉を寄せたが、やがて一歩下がった。「行きなさい」彼女は言った。「ぐずぐずしてはだめ。ミッドガルドで片づけるべき用事があるのだから」

 脳が「地球」と訳した。彼はその情報を記憶し、ドアへ向かった。彼を案内してきた衛兵は、まだそこに立っており、表情はどこか虚ろだった。アモーラが後に続いて出てきて、その男を一瞥し、それから彼へ視線を向ける。

「殺しなさい」と、彼女は軽く言った。

 簡単ではなかった。衛兵は抵抗したわけではない──少なくとも最後の瞬間までは──が、金属の腕を使ってなお、完全に動かなくなるまでには長い時間がかかった。彼は死体を空き部屋へ押し込み、扉を閉めた。アモーラは満足げに、誇らしげに微笑んでいた。

「まあ、なんて完璧なのかしら」と彼女はささやいた。「あなたは本当に素晴らしい存在ね、そうじゃない?」それは答えを必要とする問いではないと思ったので、彼は黙ったままでいた。やがて彼女が身振りで促す。

「何をすべきかわかっているわね」

 分かっていた。彼は動き出した。


「何か用か?」と尋ねるソーは笑顔だった。機嫌が良いのだろう。それならやりやすい。

「行かなきゃならない」彼は言った。「戻る」ソーの笑みが消え、彼は姿勢を正した。「そんな急に?」「なぜだ? 何かあったのか?」眉をひそめる。「ロキが──」

「違う」と彼は遮った。「何も起きてない。ただ、長く離れすぎてた。それだけだ。それに、だいぶ回復してきたし」ソーは納得していない様子で彼の顔を見つめた。彼はため息をつき、ポケットに手を押し込んで肩をすくめた。自分ならこうするだろうという姿勢。

「ここにいるのって、楽じゃないんだ」彼は言った。「別にあんたのせいじゃない。でも……俺は浮いてる。あと、その……恋しいんだよ。地球が」

 ソーは落胆したようだったが、うなずいた。「もちろん、おまえを意思に反して引き留めたりはせん」と彼はゆっくりと言った。「だが、一日待ってくれるなら、俺も共に戻れる──」

「いや」彼は言った。「無理だ。今日行かなきゃならない。でも自分でなんとかできる。俺は……そういう大げさな別れって、あんまり好きじゃない」

 ソーは目を伏せたが、理解しているようだった。少なくとも、受け入れはしたらしい。彼は立ち上がり、手を差し出した。「おまえがここにいてくれたことを、俺は嬉しく思っていた」彼は厳かな口調で言った。「たとえ、ほとんど顔を見せられなかったとしてもな。近いうちにまた会えることを願っている。その時には、もっとおまえのことを知れればと思う」

 適切な返答が見つからず、彼はただぎこちなく硬い態度を取った。どうやらそれで十分だったようだ。

「待て」彼が立ち去ろうとした時、ソーが呼び止め、彼は身体を強張らせた。「贈り物だ。何も渡さずに帰らせるわけにはいかん」

「別に必要――」そう言いかけた彼に、ソーは鼻を鳴らした。

「必要かどうかの問題ではない」彼は言った。「ほら、来い」ついて来るよう身振りし、別の部屋へ案内する。ソーは戸棚を開けて中を探り、小さな木箱を取り出して彼に手渡した。

「これだ。おまえが普段使い慣れている類の武器ではないかもしれんが……稀にみる逸品でな」

 驚きと、わずかな警戒を抱きながら箱を開けた。入っていたのはただのナイフ──いや、「ただの」ではなかった。それが良い物だというのは一目で分かったし、手に取れば、そのバランスは……完璧だった。

「魔法がかけられている」とソーは言った。「持ち主を傷つけることは決してない。そして手元へ戻ろうとする性質がある。だから簡単には失くさん」

 ナイフを見つめながら、またしても適切な言葉を見つけられなかった。「ありがとう」正直、圧倒されていた。誰かから贈り物をもらったことなど、これまでなかった気がした。少なくとも、彼の記憶にはない。そして、これは……

 きっと役に立つ。彼とアモーラがこれからどこへ向かうにせよ。

「どういたしまして」とソーは言い、彼の肩に手を置いた。その瞬間、奇妙な感覚が彼の中をかすめた──震えとは違う、何かが「違う」という感覚。だが、それもすぐに消えた。「本当に待たなくていいのか――」

「確かだよ」

「せめて一時間でも。ビフレストまで同行くらいは――」ソーの声には、どこか頼み込むような響きがあった。彼は首を横に振った。

「目立ちすぎる。静かに出て行きたいんだ」ソーは一瞬黙り、それに合わせるように彼自身もわずかに躊躇った。(妙だ。ウィンター・ソルジャーは、ためらったりしない。)

「……ロキには、出発することを伝えたのか?」ソーが尋ねた。またしても、妙な戦慄が走る。

「いや」彼は答えた。「言う必要はないと思った」

「そうか」とソーはすぐに言ったが、その顔の曇り方からして、納得はしていないようだった。「いや、もちろん、必要はないな」

 彼はナイフを箱へ戻して蓋を閉じた。最後にもう一度、別れの挨拶に腕を握られるのを我慢し、それから部屋を後にした。足取りは静かで、迷いなく、自分がどこへ向かうべきか、完全に理解している歩調だった。そのままアモーラの部屋へ辿り着き、一度だけ扉を叩く。彼女が彼を中へ招き入れた。

「ソーがナイフをくれた」そう言いながら、彼は木の箱を掲げた。「いい武器みたいだ」

 アモーラは箱を開け、一瞬、笑い出しそうな顔をした。「ええ、確かに」と言って、「それは持っておきなさい。そして、そのみすぼらしい服は脱いで。新しい装束がそこにあるわ」彼女が指し示した椅子には、確かに衣服の山が置かれていた。彼は従い、見られていることを意識することなく服を脱ぎ捨て、新しい服に袖を通した。妙な感覚だった。自分のものではないような。だが、慣れることはできる。彼はエーシルの一員のように見えた──理にかなっていた。ベルトもあり、鞘がついていた。彼はそこにナイフを差し込んだ。部屋に置いてきた私物のことが一瞬頭をよぎったが、必要ならアモーラが言っていただろう。

「何をするのか訊こうともしないのね」アモーラが言った。

「必要ならあんたが教えるだろ」彼は簡潔に答えた。

「寡黙な男ね」彼女は低く呟く。「嫌いではないわ。自分の声に酔っている男より、よほどいい」彼女は手招きした。「来なさい」

 彼は彼女に歩み寄った。アモーラは手を伸ばし、両手で彼の顔を包み込むようにして見つめる。一瞬、キスされるのではないかと思った。されたら自分がどうするかは分からなかった。だが彼女はただ微笑んで、手を離した。

「来なさい、ウィンター・ソルジャー」アモーラはそう言って廊下に出た。彼は二歩ほど後ろをついて歩いた。あらゆる方向に注意を向け、潜在的な脅威に備える。人影はまばらにあったが、誰一人として彼らを気に留める様子はない。歩き続けるうちにその人影すら減っていき、ついには陽光の下へと出た。中庭だ、と彼は思った。中央には噴水がある。そして、その傍らに立っていたのは──

 ロキは、足音が聞こえた瞬間に振り返っていた、それは間違いない。目はアモーラに向けられ、その顔が敵意に満ちた仮面へと固まる。「これはこれは、誰かと思えば」その声は絹のように滑らかだ。「まだこそこそ嗅ぎ回ってペットを探しているのか?」

「ペットとしてこそこそしているよりはマシでしょう?」アモーラは微笑みながら言い返した。彼はわずかに身じろぎした。ロキが自分をまったく見ていないように思えたからだ。何か、アモーラの仕業なのだろうと判断して力を抜き、注意深く監視を続けた。ロキが何か仕掛けてこないか。あるいはアモーラが何か命じる気配はないか。「もっとも、今日はあなたに構っている暇はないの」アモーラは言った。「悪いけれど失礼するわ。世の中にはもっと重要な用事を抱えている者もいるのよ」

 アモーラは背を向け、中庭の反対側へ向かって歩き出した。だが、二歩も進まないうちに、ロキの声が響く。「待て」アモーラは足を止め、眉を上げて振り返った。

「わたしの忍耐にも限界があるのだけれど、」そう言いかけたが、ロキは首を振った。

「違う」彼は言った。「おまえの連れだ。隠そうとしている、その男。そいつだ。こちらを向け」

 彼は微動だにしなかった。アモーラへ視線を向け、命令を待つ。彼女の口元が鋭く引き結ばれる。「巣穴へ戻りなさい、この負け犬」彼女は吐き捨てた。「あなたにわたしへ命令する権利などないわ」

「なぜおまえが新たなペットを隠しているのかを問い質す権利ならある。それに、どこへそんなに急いでいるのかもな」ロキの声は、先ほどとは違っていた。澄んでいて、威厳に満ち、そして冷たかった。「おまえだ。こちらを向け」

 アモーラではない。アモーラは命じていない。従うべきではない。

 彼は、振り向いた。

 ロキの目が見開かれた。「バーンズ?」と、その声には驚きがにじんでいた。だが、それは──違う。「おまえは一体──」ロキは言葉を切り、アモーラに視線を向けると、その表情は一変した。瞳は怒りに燃え、身体は今にも飛びかかろうとする猫のように張り詰め、唇は唸り声とともにめくれ上がった。「彼を解放しろ」

 アモーラは眉を上げ、まるで無垢そのもののような表情で返す。「なんのことかしら?」

 ロキが一歩近づいた。彼は反射的にその進路を遮った。

「おまえが何をしたのか分かっている」とロキは言った。「見れば分かる。たとえ見抜けなかったとしても、バーンズが自分からおまえについて行くはずがない。彼を解放しろ、さもなくば──」

「さもなければ、何?」アモーラは人を小馬鹿にしたように微笑んだ。「吠えるの? 鎖を引っ張ってご主人様を呼ぶつもり?」彼女は笑いながら背後へ歩み寄ってきて、肩に手を置いた。「どうしてジェームズが自分の意思でわたしについて来ないと思うの? それとも――また嫉妬かしら。わたしが、あなたには手に入らないものを持っているから?」

 ロキの顔は怒りで蒼白になり、彼は激しく前へ踏み出した――だが、魔術の拘束に阻まれて、唐突に動きを止められた。

「最後にもう一度だけ言うぞ、アモーラ」ロキは荒々しく険しい声で言った。「バーンズへの支配を解いて、去れ。さもなければ、おまえを必ず滅ぼす」

「まあ」アモーラはあざけるように言った。「怖くて震えてしまうわ」彼女は一拍置いた。「とはいえ、面倒の種を残しておく意味もないわね」

 彼女は彼の方を一瞥することもなく、ただ命じた。「さあ、兵士らしく命令に従いなさい。この哀れな生き物を楽にしてあげなさい」

 ロキの視線が彼へ向く。その瞬間、彼の内側で何かがかすかに揺らいだ――だが、それはすぐに消えた。彼はロキへ向かって踏み出した。ロキは素早く一歩後ずさりし、表情にはかすかに恐怖の色がにじんだ。

「バーンズ」ロキは低く、鋭い声で言った。「おまえには抗う力がある。わたしは知っている。焦点を、明晰さを──ほんの一瞬でいいのだ」

 彼は飛びかかった。ロキは鋭く息を呑むような声を漏らし、逃れようとした。だが間に合わなかった。彼はロキの髪を掴んで頭を後ろへ引き倒し、ナイフを抜くと、その刃をロキの喉元へ突きつけた。

 そして再び――彼は、ためらった。

「それはわたしのものだ」ロキが言った。「そのナイフはわたしのものだ。わたしの魔術がこめられている」

 ロキが唐突に、狂気じみた笑みを浮かべた。その瞬間、刃の奥で唸るような震動を感じた。ロキの両手が素早く跳ね上がり、彼の頭の両側を掴む。そして彼がロキの喉を掻き切ろうと動いた、その瞬間――

(頭蓋の内側で爆発が起きた。超新星が炸裂するような、それでいて頭という狭い空間に閉じ込められた爆発。燃えている。眼窩の奥が燃え、身体の内側を煮え立たせ、灼熱が深く深く食い込んでくる。白熱した刃が存在の核へ突き刺さる。死ぬというのは、こういう感覚なのか――)

 バッキーはよろめきながら後退した。ロキの手が頭から離れる。彼はロキを強く突き飛ばし、ロキはよろめき、地面へ倒れ込んだ。(バッキー。それが彼の名前だ。)頭がぐらぐらと回る。吐き気がした。眩暈がする。混乱している。今のは一体――ロキは、いま何を――

「何をしているの?」アモーラの声が鋭く飛ぶ。「早くやっておしまい」

 バッキーは、自分の手の中のナイフを見た。『それはわたしのものだ』ロキはそう言った。彼は顔を上げ、仰向けに倒れたまま狂ったように笑っているロキを見つめた。「ああ、だめさ」ロキが言う。「だめだよ、アモーラ。彼にはできない」ロキが頭を持ち上げ、最初、バッキーは、自分が気づかないうちにロキの鼻を折ってしまったのかと思った。だが違った。ただ、出血しているだけだった。

 バッキーは彼女へ向き直った。腹の底から込み上げてきたのは怒り――いや、それ以上だ。憤怒。「何をしたの」アモーラはロキへ鋭く言い放ち、それからバッキーへ。「ジェラニエ。ルジャヴェット――」

 彼はびくりと身体を強張らせ、身をすくめた。──だが、何も起こらなかった。かすかな疼きすらなかった。そしてアモーラ。アモーラは彼の頭の中へ手を突っ込み、中身を削り取った。欲しかったのは武器だったからだ。武器――あるいはペット。もしかすると、その両方。

 彼はナイフを構え、一歩踏み出した。勝てないことは分かっている。それでも、せめて一太刀くらいは浴びせてやる――。

 その時、頭上で雷鳴が轟いた。アモーラの顔が弾かれたように上を向く。ロキの頭は逆に地面へ落ち、笑い声は息の詰まるような音へ変わった。バッキーはアモーラへ飛びかかった。だが彼女は一瞬で身を翻し、次の瞬間には何かが彼の喉へ巻き付き、容赦なく締め上げた。

 さらに大きな雷鳴が轟き、ソーが地に叩きつけるように降り立ち、揺れる地面にバッキーは咳き込みながら膝をついた。ソーの視線が、ロキ、バッキー、アモーラへと素早く走る。アモーラの目が見開かれた。ソーが常に携えている巨大なハンマーの頭部に雷が走っていたからだ。

 すげえな、とバッキーはぼんやり思った。彼はよろめきながら立ち上がり、ロキのもとへ向かった。そしてその隣へ再び膝を落とす。ロキは横向きに転がっていた。恐らく、鼻血を飲み込まないようにだろう。

「いったい何をしたんだ」バッキーは掠れた声で訊いた。ロキの目は少しうつろで焦点が合っていない。

「礼はいいぞ」ロキはしゃがれ声で言った。そして、くすくす笑いにも似た音を漏らす。バッキーは彼をまじまじと見つめた。

「ジェームズ・バーンズ!」呼ばれて振り向くと、ソーがこちらへ大股で歩いて来るところだった。ハンマーにはまだ雷光が走り、顔は――なるほど――嵐のような険しさを帯びている。「無事か?」

「たぶん」バッキーは答えた。「アモーラは?」

「消えた」とソーは険しい声で言った。「何らかの魔術で姿を消した」ソーの視線がロキに移る。ロキは再び頭を地面に落とした。

「どうぞ」彼は言った。「どうせ、糾弾したいことが山とあるんだろう」

「俺は拘束の魔術に呼ばれたのだ」ソーはなおも険しく、怒気を隠さない声で言った。「ロキが魔術を使ったことでな」

 ロキは喉を詰まらせたような笑い声を上げた。「そうだ。そうなるよう当てにしてた。バーンズが一人でアモーラを倒せるわけがない」

「でも、何をしたんだ?」バッキーは詰め寄るように言った。今にもロキの肩を掴んで揺さぶりたい気分だった。「頭が……爆発するかと思ったぞ――」

「おまえを治したのだ」とロキは言った。彼の目は一度焦点を失い、再び戻ってきた。「言っただろう。礼は言わなくていい」

「ロキ」ソーがゆっくりと言う。「それはどういう意味だ? アモーラの術を取り除いた、ということか?」

「違う」とロキは言った。「全部だ。全部、消した。今のおまえは“清らか”だ」彼は笑った。その笑みには、どこか痛みのようなものが滲んでいる。「おまえはおまえ自身のものになった。もう命令も、引き金も、ヒドラもない。わたしが消した」その笑みは、次第に弱々しく、それでも先ほどよりずっと本物らしいものへと変わっていった。「おめでとう、バッキー・バーンズ。おまえは自由だ」

「待て」バッキーは言った。だが実に劇的なタイミングで、ロキの目がぐるりと裏返り、その身体はぐったりと力を失った。


 アスガルドの治療師たちが、彼は完治したと診断した。今回診察を行ったアスガルドの筆頭治療師はエイルという名の女性で、ソーがそばをうろうろしていることに露骨に感心していない様子を見せ、バッキーのことも、厄介なペットを見るような態度ではなく、もう少しましに扱っていた。

「何も見つかりません」と、彼女はやがて言った。「“歪み”があった痕跡は感知できますし、多少の傷跡は残っていますが、それ以上のものは何もありません」彼女が手を動かすと、奇妙な魔法のMRI……のような装置の唸り音が止まった。ソーは彼女とバッキーを交互に見やり、眉をひそめる。

「本当に?」と、バッキーはしゃがれた声で尋ねた。胸の内で膨らみかける愚かな希望を押さえ込もうとしながら。「何も残ってないのか? 本当に何一つ?」

 エイルは彼を一瞥した。「今そう言ったでしょう」と彼女は言い、それからソーに向き直る。「それで、何が起きたとおっしゃいました?」

「俺にも……確信はない」と、ソーは言い、身を起こしたバッキーへちらりと視線を向けた。

「ロキが――その、何かをしたんだ。あれが何だったのか、俺にはわからない」

「ふむ」エイルは眉をひそめた。「第二王子は魔法を使えないというのが、わたくしの理解でしたが」

「そのはずだった」とソーも認める。「エインヘリャルたちは説明を求めたが、彼はまだ何も語っていない」

 だろうな、とバッキーは思った。しかしロキの名を聞くだけで、肌がむず痒くなるような感覚に襲われた。「でも効果はあったんだ」と彼は言い張った。「あいつが何をしたにせよ……俺の頭は。すっきりしてる」

「そのようですね」と、なおも眉をひそめたままエイルは言った。「どのようにしてそれを成し遂げたのか、興味があります……もっとも、ロキの手法は昔から型破りでしたから。もし気が変わって話す気になったなら、ソー王、わたくしからも直接問いただしたく存じます。この件から何かを学べるのであれば――」

 バッキーは、ほとんど話を聞いていなかった。彼の耳に残ったのは、そのようですね、という言葉だけだった。頭の中がざわめき、くらくらするほどだった。突然、未来が――開けたのだ。地球へ帰れる。帰って、そして……何だってできる。いや、何でもというわけじゃない。だが少なくとも自由になれるし、誰かにまた兵器へ作り変えられる心配をしなくて済む(もっとも、と彼の心のどこかが陰鬱に思い出させた。アモーラや彼女のような存在が再び現れない限りは、と)。彼の人生は彼自身のものだった。少なくとも、可能な限りにおいては。

 他人から見れば大したものではないのかもしれない。それでもバッキーには、それだけで十分すぎるほどだった。二度と得られないと思っていたものなのだから。

「大丈夫か?」ソーにそう尋ねられ、バッキーは自分が黙り込んだまま、虚空を見つめていたことに気づいた。

「ああ」そう言って、彼は笑みを浮かべた。「ああ。実際な、いいよ」彼は立ち上がり、エイルの方を向いた。頭を下げるべきかと一瞬考えたが、きっと気まずいことになるだけだと思い直した。「ありがとう」彼は心からそう言った。

「どういたしまして」エイルは短い間を置いてから答えた。「さらばです、ジェームズ・バーンズ」

「バッキーだ」彼はそう言い、ちらりとソーを見た。「ただの“バッキー”でいい」

 バッキーはソーと並んで歩き出した。体がひどく軽かった。何か月ぶりだろう――いや、もしかすると何年ぶりかもしれない。胸の奥にふわりと浮かぶ感覚があった。それは、はっきりと「幸福」と呼べる感情だった。

「おまえが無事で本当によかった」しばらく歩いた後、ソーが言った。「そこに至るまでの経緯には、ひどく心を痛めている。アモーラの動向を十分に監視していなかった。まさか、おまえにまで手を伸ばすとは、思ってもみなかったのだ」

 バッキーは肩をすくめた。「最初に接触された時点で話すべきだったんだろうな。誰かを頼るって発想に、まだ慣れてなくてさ」

 ソーは首を振った。「それでもだ。彼女にそこまでのことを許してしまった。そして、ロキがその力を善い目的のために使ったとはいえ――彼に課した拘束が、俺の考えていたほど強固ではなかったことも。どうやら俺は多くのことを見落としていたらしい」ソーはため息をついた。「だが、その責任は俺が負うべきものだ。ともあれ……今度こそ本当にミッドガルドへ戻るのだな?」

「ああ」バッキーはうなずいた。「ただ——もう二、三日こっちにいるつもりだ。慌てて帰る必要もないし」少し間を置いてから、彼は言った。「で、あのナイフ、俺が持ってていいのか?」半分は冗談のつもりだった。

 ソーは笑った。「もちろんだ。いずれにせよ、あのナイフはおまえに譲るつもりだったものだ。それと、わかっているな――このままここに滞在するなら、宴が開かれるぞ」

「それくらいなら付き合えるさ」バッキーは横目でソーを見た。「ところで、どうして、よりによってロキの作ったナイフをくれたんだ?」

 ソーはまばたきをし、バッキーをちらりと見た。そして少しばかり気まずそうな顔をする。「えー……そうだな。あいつの作る武器は、俺の持つ中でも最高級の品だった。もちろんムジョルニアを除けばだが」ソーはそう言った。「おまえへの贈り物だ、半端な品を渡すわけにはいかん」

「でも、それだけじゃないんだろう?」とバッキーは言った。

「ああ」とソーはしばらくしてから言った。「たぶん、それだけではないな。俺は……そうだな」長い沈黙が落ちた。「スティーブが、自分にとって何より大切な友を取り戻したことを」やがてソーは口を開いた。「羨んでいるわけではない」バッキーは少し居心地の悪さを覚えたが、何も言わなかった。「ただ、それでも……いや、うまく言えんな」ソーは小さく首を振った。「愚かなことだ」

 バッキーには、言いたいことがわかる気がした。少なくとも、なんとなくは。「どうしたって重なるところは見えるよな」

 そう言うと、ソーはすぐに首を振った。「俺は、おまえたちが同じだとは思っておらん。似ているとも、さほどな」バッキーはロキの言葉を思い出した。――『我々が“同じ”だなどと言うつもりはない。それくらいの分別はある』と。

「完全に的外れってわけでもないさ」とバッキーは言った。「そう考える理由もわかるよ」

 そして、ロキの話をしている今だからこそ……バッキーは深く息を吸ってから吐き出した。ただ黙って去るわけにはいかなかった。何かしらの決着、望みが薄いとしても、得なければならなかった。

 それに、自分が自由を得て喜んでいる一方で、ロキが檻の中に閉じ込められているというのは、どこか釈然としなかった。

「彼、どこにいるんだ?」バッキーはソーに尋ねた。ソーは鼻から息を吐いた。

「拘束している」少し間を置いてから、彼は答えた。「厳重な監視の下にな。どうやってあの拘束をかいくぐったのかがわかるまでは……」ソーはため息をついた。「あいつがおまえを助けるために魔法を使ったことは承知している。今回はな。しかし次もそうするとは――俺には信用できない」

 バッキーは金属の左腕へ視線を落とした。たとえ他のすべてが消え去ったとしても、これだけは残るだろう――そう思った。過去を思い出させる印として。そして不意に、アモーラに掴まる前にソーへ伝えようとしていたことを思い出した。

「ロキは、自殺願望があると思う」

 ソーは目を閉じた。「知っている」

 バッキーは思わず足を止め、眉をひそめた。「……は?」

 ソーは重いため息をついた。「いや……そうではないな。そうではないかと疑っていた、と言うべきか。だが、俺に何ができよう? さらに厳しく拘束するか? そんなことをすれば、あいつをますます追い詰めるだけだ。あらゆる危険を取り除くか? だがロキは俺よりずっと頭が切れる。しかも、阻まれれば阻まれるほど、やり遂げようとする。癒し手たちは、助けになるかもしれない魔術もあると言ってはいるが、それが効く保証はなく、むしろ害になる可能性も高いそうだ。俺には、どうすればいいのかわからん」そこで言葉を切り、唇を固く結ぶ。「結局のところ、俺にできるのは、許せる限りの自由を与え、あいつ自身が何らかの充足を見いだしてくれることを願うだけだ」

「それは……」バッキーは体を少し動かした。「悪かったな」そう言った。心からの言葉だった。

「謝る必要はない」ソーは重々しく言った。「むしろ……ロキがおまえを助けることに関心を示してくれたことを、俺は嬉しく思っていたのだ。もしや、自分の才を悪事以外のためにも使えるのだと、あいつ自身が気づくきっかけになるかもしれないと、そう願っていた」

「実際、そうなったんじゃないのか?」とバッキーは言った。ソーは首を振った。

「今回はな。だが……どれほどそう願おうとも、俺は弟を信じ切ることができん。あいつは風のように移ろいやすい。今回の意図についても……善意だけだったと信じられればよいのだが。俺には、それができん」

 バッキーは顔をしかめた。視線を床へ落とし、かかとで敷石をこすった。

「……彼と話せるか?」彼はやがてそう言った。ソーは完全に彼の方を向き、眉をひそめた。

「話したいのか?」

「ああ」バッキーは言った。「少なくとも、礼くらいは言いたい」

 ソーはうなずいた。「ならば――もちろんだ。おまえが望むなら」

「今から?」バッキーが訊ねる。ソーは再び彼を見つめ、それからゆっくりとうなずいた。

「構わぬだろう」と、もの思わしげな間を置いて言った。「ついて来い」


 バッキーは、牢獄や地下牢のような場所へ降りていくことを、なんとなく予想していた。代わりにソーは彼を上へと導いた。城の一角にある孤立した高所の部屋へ通じる唯一の道らしい、狭い階段を上っていく。上りながら、バッキーはその高さについて考えた。そして何かが顔に出ていたのだろう、ソーは言った。「この部屋には窓はない。かつては……昔、アスガルドの内戦時代に、裁きを待つ王族の囚人を収容するために使われていた部屋だ」

 バッキーは半ば尋ねてみたい気もしたが、今は歴史の講義を聞きたいわけではなかったし、もうすでに踊り場へ着いていた。そこには、二人の完全武装した男たち――おそらくエインヘリャルだろう――に守られた質素な扉があった。ソーを目にすると、彼らは会話を止めて姿勢を正した。

「ジェ ―― バッキー・バーンズがロキと話したいそうだ」とソーが言った。

「陛下」と一人が答え、脇へ退く。ソーは扉に手のひらを当てた。扉が何らかの光を放ち、それからカチリと音を立てて開く。ソーが中へ足を踏み入れ、バッキーもその後に続いた。

 部屋の空気には奇妙な質感があった。音を鈍くするような、どこかこもった重さが漂っている。「ロキ」とソーが呼びかける。「客人だ」

 バッキーはソーの脇を抜けて室内を見渡した。特筆すべきものはほとんどなかった。低い寝台、洗面用の水盆、隅はカーテンで仕切られていて、おそらく簡易トイレなのだろう。ロキは寝台に横たわり、両手を腹の上で組み、天井を見つめていた。その胸がかすかに上下していなければ、死人と見まがうところだった。だがロキは、ソーの呼びかけには応じなかった。

「俺だよ」何かしら反応を引き出せればと思いながら、バッキーは言った。ロキの頭がほんのわずかに動いたような気がしたが、それ以上の反応はない。バッキーはしばらく考え込みながら、その横顔を見つめた。「出てもらえる?」とバッキーはソーに言った。「外で待っててもらうとか」

 ソーはためらい、ちらりとロキの方を見た。バッキーは眉を上げた。「俺なら大丈夫だよ」と彼は言った。「本気で俺を殺したかったなら、あの時もう終わってたと思う」視界の端で、ロキの口元がかすかに動いたような気がした。

「わかった」とソーはしばらくしてから言った。「俺はすぐ外にいる。この扉はおまえには開かない。出たくなったら、二度ノックしてくれ」

 バッキーはソーが部屋を出て、背後で扉が閉まるのを待ってから口を開いた。「ここ、椅子もないんだな。少し詰めてくれないか? 座りたいんだけど」

 返事はない。バッキーは自分の腿を指先で軽く叩いた。「そうか」と彼は言う。「まあ、いいけど。俺を無視し続けて何になると思ってるのかは知らないけどさ」ロキは答えなかった。目は開いているとバッキーは気づいた。だが瞬きひとつせず、その顔からは何の感情も読み取れない。「それはともかく」とバッキーは続けた。「礼を言いたかったんだ。ついさっき、ヒーラーの女の人、エイルって名前の――あのひとから正式に問題なしってお墨付きをもらった。あんたにはもう分かってるんだろうけど、これで正式な話になったからな……」

 それでも反応はなかった。バッキーは居心地の悪さに肌がちくりと粟立つのを感じた。「こういうときは『どういたしまして』くらい言ってくれてもいいんだけどな」と乾いた声で言った。

 ロキは目を閉じた。「どういたしまして」その声には何の感情もなかった。「それだけか?」

「詰めてくれって言っただろ」再び言うが、ロキは動かなかった。バッキーは諦めて彼の脚を横に押しやり、ベッドの端に腰を下ろした。「いや、それだけじゃない。ほかの連中も聞いたと思うけど、俺には答えてくれてもいいだろ」ロキは微かに身じろぎし、それをすぐに押し殺した。「魔法は使えないって言ってたよな。最初から使えたのか? だとしたら、なんで今まで黙ってた? なんで――」

「わたしはおまえに何の借りもない」とロキが言った。「わたしの理由はわたしだけのものだ」

「そうか」とバッキーは言った。「別に俺に借りはないかもしれんけどな。でも、俺は知りたいんだ。俺自身のために。だいたい隠してたって意味ないだろ? 連中はあんたが話すまでここに閉じ込めておくだけだぞ」

 ロキは長いあいだ黙っていて、バッキーが何かきつい言葉を投げつけようとしたそのとき、ロキはため息をついた。「話しただろう」と彼は言った。「魔力のすべてが絶たれたわけではなかった。大半は封じられ、何かを成せるほど残っているわけでもなかった。だが……注意深く扱えば、わずかに蓄えることはできた。それを集め、保持し続ける。一年もかければ、アスガルドの拘束を破るのにほぼ十分なまで力を溜めることができる」そう言って彼はわずかに両手を持ち上げ、手首にはめられた金属の枷を示した。「あと一か月もあれば……」小さく、そして苦く笑った。

 バッキーは彼を見つめた。何を予想していたにせよ――少なくとも、こんな答えではなかった。「どうしてだ?」荒っぽく、彼は尋ねた。

 ロキは肩をすくめた。再び目を開いていたが、相変わらず真上を見つめたままだった。「そこまで深く考えた末の決断ではなかった。おまえはまさにわたしを殺そうとしていたのだからな。逃亡の機会を失うか、それとも命を失うか、そのどちらかだったと言うこともできる」

「でも、あんた、命を失うの別に問題にしてなかったろ」とバッキーが言った。ロキの唇に、ごくわずかな、愉快さの欠片もない笑みが浮かんだ。

「生き延びようとする本能は、そう簡単に抑え込めるものではない」

 それは、まぁ、ある意味では筋が通っていた。だがバッキーの腹の底では、まだ何かが「嘘だ」と告げていた。彼は少し身じろぎした。ロキがこちらを見てくれればいいのに、と思いながら。「まぁとにかく……ありがとう」

 ロキは咳払いするように笑った。「自分の身を守るために動いたことに対してか?」

「理由が何だったにせよ」バッキーはゆっくりと言った。「結果は同じだ。俺の頭は俺のものになった。ヒドラのごたごたは消えたし、アモラも俺の脳みその中からいなくなった。結局のところ、俺はかなりいい形で切り抜けられたみたいだ。だから本気で言ってる。ありがとう。もしかしたら――」彼は両手を腿の上でこすった。「もしかしたら、これで俺も、まともな人生を送れるかもしれない。冷凍保存されるような人生じゃなくて、な。それは、あんたのおかげだ」

 ロキは黙ったままで、口元がわずかに引きつる。なんか……居心地が悪そうだ、とバッキーは思った。まるで感謝されることに慣れておらず、どう反応すればいいのか分からないみたいだった。バッキーは彼をじっと見つめ、どう反応するかを待った。

 やがてロキは重いため息をつき、身を起こした。脚を床へ下ろす。それでもなお、バッキーには一瞥もくれない。「おまえも少しは鼻を高くするべきだろうな」しばらくして彼は言った。声には相変わらず抑揚がなかった。だがどこか慎重に言葉を選んでいるようにも聞こえた。「アモーラは……いろいろと問題のある女だが、見る目だけは確かだ。そして常に最上のものしか望まない」

 バッキーは鼻を鳴らした。「そりゃ光栄なことで」

 ロキは声もなく笑った。そこにユーモアの気配はない。視線はバッキーではなく、壁の一角へ向けられていた。「まぁ、彼女がおまえの中にそれを見出したこと自体は間違っていなかった」

 バッキーはまばたいた。ロキの方へ向き直り、その横顔を見つめる。しかしロキはやはりこちらを見ようとしない。今の言葉をどう受け取るべきなのか、バッキーには判断がつかなかった。「……ありがと?」彼は少し戸惑ったように言った。

「そんなに意外か?」ロキは尋ねた。横目でバッキーをちらりと見やる。口元の片側だけが皮肉げに持ち上がっていたが、その瞳には痛ましいほどの憂いが宿っていた。「おまえは意志が強い。打たれ強く、勇敢だ。なかなかに頭も切れるし、優れた戦士でもある。それに、見目も悪くない」

 バッキーはもう一度まばたきをした。それから、どこか息の詰まったような笑い声を漏らす。「それって、要するに俺のことをハンサムだと思ってるって意味か?」半分は冗談のつもりでそう尋ねた。ロキは答えなかった。ただ口元の歪みを少し深めるだけだった。バッキーはそんな彼を見つめた。あんた、俺のことなんてほとんど知らないだろ、そう思ったが、もしかするとそんなことは関係ないのかもしれなかった。口の中が少し乾いた。

 やがてロキは完全にこちらへ顔を向けた。眉を上げ、バッキーを見つめる。「……へえ」バッキーはどうにかそれだけを口にした。ロキは笑ったが、それはかすかに苦々しい響きを含んでいた。

「さらばだ、バーンズ」ロキは言った。「今後は魔女には関わらぬようにな。次はわたしが助けに来るとは限らん」

「バッキーでいい」彼はそう言い、それから言葉を飲み込んだ。ためらう。だが――。「そうとも限らないさ。そんなこと、あんたにも分かんないだろ」

 ロキは眉を上げた。それから立ち上がり、数歩離れる。「わたしがどこかへ行けるように見えるか?」

 バッキーは頬の内側を噛んだ。「ソーはあんたを許したがってる」彼は言った。「それに……また地球を救わなきゃならなくなる時が来るかもしれないしな。魔法が必要になるとか、そういう何かで。だから――その、な?」

 ロキはゆっくりと振り返った。首をわずかに傾けながら、奇妙な、読み取れない表情でバッキーを見る。「それは誘いか、バーンズ?」彼は尋ねた。「わたしに会いに来いと言っているのか?」

 バッキーは立ち上がり、ゆっくりと歩み寄った。「かもな」と言った。

 ロキは彼を見下ろし、眉を寄せ、まるでバッキーという人間を解読しようとしているような顔だった。少し滑稽なくらい真剣な表情だ。バッキーはごくゆっくりと手を持ち上げた。だがロキは反射的に身を引く。「おまえはわたしに何の借りもない」と言った。

「わかってる」とバッキーはかすれ声で応じた。ロキは微動だにせず、バッキーの指が彼の髪に差し入れられると、かすかな、本当にかすかな音を立てた。

 長くはなかった。少しぎこちなかった。二人とも唇はかさかさに乾いていたし、ロキは身動きするのを恐れているようだった。七十年ぶりのキスにしては、劇的なものではなかった。それでも、バッキーがうっかりロキの髪を引いてしまったときに漏れたあの小さな息遣いには何かがあったし、ロキの指先が首筋をかすめたあとに残った痺れるような感覚にも、確かに何かがあった。

 先に離れたのはロキだった。一歩後ろへ下がり、どこか落ち着かない目をしている。「もう行け」彼は言った。

「……ああ」バッキーは答えた。実際に感じているよりは、ずっと落ち着いた声だった。脈が少し速すぎる。彼は唇を舐めた。「じゃあ、また会えるよな?」

「さあな」神経質で、どこかむき出しの表情。自分がこれまで見た中でいちばん本物のロキの表情かもしれないと、バッキーは思った。

「『さあな』じゃなくて、そうだと言えよ」とバッキーは言った。「それと……あの剣だ。あんたの頭の上にぶら下がってるやつ」

「それがどうした」とロキが言った。

 バッキーはまっすぐロキの目を見た。「絶対なものなんてない。剣は錆びる。出たきゃその下からだって動ける。死ぬまでは、死んでなんかいないんだ」

 ロキの瞳の奥で、何かがかすかに揺れた。「それがおまえの人生訓か、バッキー・バーンズ?」

「ああ」とバッキーは言った。ドアを二度ノックし、笑みをつくる。「じゃあな、また会おう」

 ——少なくとも、頼むから、そうなってくれと、バッキーは願った。

 

 

Notes:

ロキとバッキー、公式では残念なことにまったく絡みがありませんが、カプものに限らずFanfic界では人気のコンビ。共に元ヴィランで、ブロンドヒーローの片割れで、ナイフ使いが巧みなところ等々、共通点も結構あり。このコンビの魅力は距離感かなと思います。特にバッキーの側で、距離感を心得ていて決して無遠慮に踏み込んでこない。距離感という概念がそもそもなさそう(ロキに対しては特に)なソーや、(ステロキでの)若干押しつけがましいところのあるスティーブからすると、バッキーの距離の取り方とスバっと本質に切り込む視点や発言、ドライなユーモアはロキにとって心地よいのではと思います。バッキーの方は……元来、一度関わるとつい面倒見がよくなるタイプですしね。

原題、口に出して読むと強弱の波が美しく、あたかも格言や墓碑銘のような響きがあり、そして詩的というか哲学的というか、読む者に思考を促す美しいタイトルだと思います。そのまま訳してしまう(「私たちが持つものは、すべて失う」あるいは「手にしたものは、すべて失われる」)と、どうしてもこの原題の硬質な美しさは損なわれるし、かといって大胆に意訳した邦題というのもはばかられ……(まぁ商業作品ではないので無理に邦題をつける必要はないじゃないかと言われてしまえばその通りでございますが。) どちらかといえば心情ロキ寄りのタイトルかなと思うのですけど、ロキの「失うことへの諦念」とバッキーの「それでも生きろ」が真正面からぶつかり、最後にはこのタイトルが必ずしも真実ではなくなる、真実でなくなってくれ、というバッキーの願いで終わる、ああはやりこれはLiseさんらしい一作、そんなことを思いつつ、ここまでお付き合いいただきありがとうございました。